自分がやりたいことをやるためのバンド
──中野良一さんと青木正行さんとはどんな経緯で知り合ったんですか。
K:『ミュージック・ライフ』のメンバー募集欄に投稿したんですよ。この間、あるパーティーで星加ルミ子さんという当時の編集長にお会いして、「星加さん、実は俺のスタートは星加さんのやってた雑誌なんですよ!」って伝えたら驚いていましたけどね(笑)。
──“メン募”の反応はどうだったんですか。
K:全国からもの凄い数の手紙が来ましたよ。「ファンになりたい」っていうのもありましたけどね。まだバンドも結成していないのに(笑)。「マネージャーをやりたい」「スタッフになりたい」っていうのもあったな。で、数ある「一緒にバンドをやりたい」という手紙の中で、ひとつだけヘンなのがあったんですよ。何だと思いますか? 「使用している機材:フェンダー・ツイン・リヴァーブ」っていうのを筆頭に、あの当時の最高級の楽器が書き連ねてあったんです。グループ・サウンズの人たちですら、当時はまだ国産のアンプを使っていた時代ですよ? もの凄いお金持ちじゃない限り持っていないはずの楽器がダーッと書かれてあったんです。こんなに凄い楽器を使っている連中は一体何者なんだ!? と思って、手紙をくれたバンドに連絡を取ってみたら、そこに青木がいたんですよ。中野は青木と同じ大森近辺の流れでね。
──活動中はサーキット族(今の暴走族)から熱狂的な支持を集めて、田原総一朗がプロデュースを手掛けた外道のドキュメンタリー番組『新若者考〜シラケの季節をぶっとばせ〜』が放映されたり、バンドが生み出す純粋な音楽が一過性の現象として捉えられたことに歯痒さはありませんでしたか。
K:まぁ、音楽の周りにあることでしたからね。ドラマーはもともと不良っぽくて、暴走族をやっていたから(笑)、最初はそういう仲間が寄ってくるんですよ。それがどんどん膨らんで、そのうち「もういい加減にしろよ!」っていうくらい集まってくるようになってね。当時の若者が興味を持てる対象が他になかったし。今だったら大変ですよね。あの頃は町田から横浜まで赤信号を止まらずに行けたりしたんだから(笑)。
──町田と言えば、町田警察署の隣りで町田市民音楽祭に出演した時の「おまわりさん、楽しいですかぁ〜?」という挑発的なMCが有名ですけど。
K:もともとそういうタイプの人間だったかもしれないね。警察も政治家もバカが多すぎるし、世の中には背広を着て紳士なフリをして、ろくでもないヤツがいっぱいいるわけですよ。はっきり言って、ヤクザなんかより悪いヤツがいっぱいいるわけだ。もちろん警察にも政治家にもいいヤツはいるけど、悪いヤツのほうが圧倒的に多い。半端じゃない。それはやっぱり、良くない。あいつらが日本を悪くしているわけだから。
──第1期の外道がわずか3年で瓦解したのは、やはり音楽的な方向性の違いによるものが大きかったんですか。
K:俺と組みたがっていたマネージャーが外道を始める前にこう言ったんですよ。「お前の好きなバンドをやってくれ」って。つまり、外道っていうのは俺がやりたいことをやるためのバンドだったわけです。そのやりたい方向性がやれなくなったとしたら、意にそぐわないメンバーを切るしかない。外道は友達が集まって始めた仲良しバンドじゃなくて、完璧に俺のワンマン・バンドなんですよ。俺のやりたいことをやれない人には替わってもらうよ、っていうのが最初からのスタイルだった。ドラムはこういうふうに叩かなくちゃいけない、ベースはこんなふうに弾くこと…っていう感じで、弾き方・叩き方まで俺が教えていたんです。あと、バンドをコントロールするために、俺は敢えて表に出ないで青木をリーダーにしてライヴで喋らせて、俺は喋らないでカリスマ性を持たせようとしたんですよ。それはマネージャーと話して意図的にやっていました。そのマネージャーはもともと美空ひばりさんにべったり付いていた人だったから、ひばりさんのステージングやプロとしての在り方を教え込まされていてね。他にも弘田三枝子さんや数多くのジャズ・ミュージシャンを育てた人で、とても懐の深い人だった。その人と2人で外道を始めたんですよ、実はね。
──今も昔も外道は加納さんありきのバンドということですね。
K:最初はそうだったんだけど、やっていくと他のメンバーもだんだん自分の言いたいことや勘違いするところが出てくるじゃないですか。それに、あいつらのほうが年上だしさ。そうやって立場が逆転する場面も多々あったんだけど、関係ないよ、違うんだよ、と。俺は人気が出ても勘違いせずに一生懸命音楽に打ち込んでいたけど、メンバーは「自分たちって凄いのかな?」って勘違いをするようになった。その時に“もうダメかな…”と思いましたね。それと、ある曲を演奏できなくなったこと。端折るし、違うことをやりたくなってきたみたいで、じゃあもう必要ないね、と。それでメンバーを切るか、バンドを辞めるかを考えて、ここで一度辞めようと思ったんです。
そうる透との不思議な巡り合わせ
──同じメンバーで3年後に再始動した際は、『YELLOW MONKEY』や『水金地火木土天回明』といったセッション色の強いフュージョン寄りの音楽性へと変化していきましたよね。
K:それももともと俺の中にあった要素なんですよ。でも、世の中にフュージョンが流行る前にフュージョンをやって、フュージョンが飽きた頃にフュージョンが流行ってきた(笑)。俺はジャズ系の事務所にいた10代の頃から外タレが来るフェスティヴァルとかにも出て演奏していたし、そういう素養もあったんです。ちなみにその頃、関西からヴォーカルを呼ぼう、そいつを育てようっていう話になって、それが上田正樹だったんですよ。そんなプロデュース的なこともやっていたんです。
──1991年7月に“Gedo”名義で発表した『One, Two』は角松敏生さんのプロデュースという意外な人選で、当時とても驚いた記憶があります。
K:ある日、ライヴのリハーサルをやっていたらポンタ(村上秀一)が角松を連れてきたんですよ。ポンタとは古い付き合いで、外道が全国を回っていた頃にあいつが五輪真弓のバックで叩いていたのが最初の出会い。俺は角松のことを知らなかったから、「誰?」って訊いたら、「今、日本で一番売れてる」なんてポンタが言う。「何やってんの?」って角松に訊いたら、「ギターと歌をやってます」と。「ギターと歌? 俺と一緒じゃない!?」ってことで話を聞けば、角松は俺の大ファンで、俺の曲をずっとコピーしていたと言うわけ。それでどうしても俺に会いたくて、ポンタに頼んで会いに来たと。それをきっかけに知り合って、角松がどうしても外道でアルバムを作りたいということで作ったのがあのアルバムなんです。それ以降、角松のコンサートにゲストで出たり、あいつのレコーディングに参加したりしたんですよ。ちなみに、角松はアマチュア時代にデパートの屋上で外道を見たんだって。俺に会う度にそのデパートの話をするんだけど(笑)。当時、デパートでもよくライヴをやったんです。つのだ☆ひろのスペース・バンドとかいろんなバンドと一緒にデパートの屋上に出た最初の頃、俺は白塗りでマントを着ていたんですけど、客として裕也さんとミッキー・カーチスが俺の前にいたこともありましたよ(笑)。2人とも「何だか訳が判らない」なんて言っていましたけど(笑)。
──今回、ロフトの同じステージに立つそうる透さんは、その角松さんがプロデュースした作品の時からの付き合いですよね?
K:そうなんだけど、その前からやっていたある時期の外道から参加してもらっていたんです。透との出会いは、実は横浜の野音だったんですよ。その時、ドラマーがリハーサルに遅れて来なかったから、「おい、誰か外道の曲を知ってるヤツいるか?」ってスタッフや他のバンドに声を掛けて、「はーい!」って手を挙げたのが透だったんです。彼はまだ15、6の子供だったんだけど、「おう、じゃあ叩いてみろ」っていうことになって。で、「お前、もうちょっと勉強しろよ」ってその場でいろいろと教えたんですよ。「そのうち俺はお前と会うことがあるかもしれないから」って言ったら、「そうですか!?」なんて答えていたけど。でも、それから数年経って実際にそうなった。
──出会いの巡り合わせとはつくづく面白いですね。
K:そういう面白い出会いが俺にはいっぱいあるんですよ。俺を触媒にすると、グループ・サウンズやら日本のロックの黎明期やらいろんなミュージシャンの話がたくさん出てくる。ジョニー吉長なんてタイコを叩く前から知っているし、子分のように連れて歩いていたんだから。それを何とか本にまとめようと思ってから2年くらい経っているんだけど、23歳のところで止まっているんですよ(笑)。生きている間に書き上げればいいかなと思っているんですけどね。
──そうる透さんと一緒に今回屋台骨を支えるのは元ナイト・ホークスの松本慎二さんですが、松本さんとはもう長いこと外道を一緒にやっていらっしゃいますよね。
K:そうだね、前回の外道もやっているから。元のベースなんかよりも全然長いですよ。松本とはナイト・ホークスから外道の前座をやらせてくれって言われて一緒にやったのが最初だったんだけど、「外道のベースに合うヤツが一人いるよ」って透が連れてきたんです。透の紹介なんですよ。
──ちなみに、中野さんはもうリタイアされているんですか。
K:まだ生きているみたいだけどね。まぁ、あの人はいろいろと(笑)。今日、ここに来るまでに山口冨士夫のマネージャーとも話していたんだけど、「この間どこかで見たけど、危なかった」って言うから、「イロハニホヘト」って言っておきました(笑)。