中学2年の時からオリジナル志向
──そして、加納さんは外道を結成するに至るわけですね。
K:エムをやっていた頃の友達がいっぱいいたんですよ。ある日、その友達の中のギタリストがオーディションみたいなものに誘われて、俺もスタジオへ見に行くからと約束したんです。行ってみたら、まだ彼は来ていなくて、スタジオに入ると知り合いばかりでね。キーボードが近田春夫、ベースがエムにいた岡沢章、ギター兼リーダーがズー・ニー・ヴーの高橋英介、ドラムがフラワーズに一時いた知り合い、ヴォーカルがピートマック・ジュニアっていうジャズのフル・バンドで唄っていた黒人のハーフで。みんな顔馴染みだから「おー、何やってるんだよ?」みたいな感じになって、彼が来るまでジャムをやろうということになり、来るまでジャムっていた。そしたら後日、そのバンドのマネージャーから電話があって、みんな俺じゃなきゃやりたくないって言う。俺の友達じゃダメで、もう断っちゃったって。それで仕方なくやることにしたんだけど、そのマネージャーが後に外道の最初のマネージャーになるんですよ。そこは日野皓正やら何やらがいるようなジャズ・コンサートをやっている事務所でね。外道をやる前は、アメリカからシンガーがやって来ると俺がギターを弾いたりもしたんです。ヴォーカルがいて、ちゃんとバック・バンドもいるんだけど、何故か俺が彼らよりもめっちゃくちゃウケたの。そんな経緯もあって、マネージャーが全部辞めて俺とやりたいと言い出して、それで始めたのが外道だったんですよ。考えてみれば、外道が最初に練習していたのも新宿だった。四谷スタジオっていう所に入ってずっと外道の練習をやっていましたね。
──当初からオリジナル志向だったんですよね?
K:もちろん。それは俺、中学2年の時から決めていたんですよ。小学校の4、5年生の頃から“人生、何をやるか?”っていうのを考えていて、ある時、家にステレオがある友達にビートルズを聴かせてもらったんです。俺はもともと体育会系で、音楽なんて嫌いだったんですよ。マラソンでオリンピックに出たいとか、当時は『姿三四郎』が流行っていたから三四郎みたいになりたいとか考えていましたからね。でも、ビートルズを聴いた時に“へぇ、面白いな。世の中にはこんなものがあるんだ”と思った。その時に“これはもしかしたら俺の仕事かな?”って思ったんですよ。それから音楽に興味を持って、中学1年の時にアコースティック・ギターを買ってもらったんだけど、それじゃアンプに繋げられないってことで、中学2年の時にやっと質屋で売っているようなエレキ・ギターとアンプを買ってくれて。でも、周りには誰も弾ける人がいないし、テレビの番組を見ながら、映画でもニュースでも、何でも合わせて弾くことにしたんです。それで16の時にはもうステージに立っていたんですよ。
──初ステージはご自身のバンドだったんですか。
K:一人じゃできないから、自分でバンドを作りましたね。学校へ行って、「お前はタイコの顔をしているからドラムセットを親父に買ってもらえ!」とかめちゃくちゃなことを言ってね(笑)。そいつと一緒にそいつの親父に頼み込んで買ってもらいましたよ。当時、俺の中学はひとクラス50人くらいで12クラスはあるっていう子供の多さだったんですけど、その中でギターを弾けるヤツは学校で1人か2人だったんです。そんな時代だったから、もう勝手に決めるしかない(笑)。そうやってメンバーを決めていって、最初からオリジナルをやっていました。ビートルズもストーンも聴いたけど、俺は俺だから! ってね。ウチのクラスにハンディキャップになった子がいて、その彼女は特殊学校へ転校したんです。それで俺たちはバンドで慰問に行くことにしたんだけど、その慰問が俺の最初のステージだったんです。中学3年の頃ですね。リアカーに楽器を積んで、5、6キロ押しながら行きましたよ。その移動中、買ったばかりのベースが落っこちて、車輪に轢かれて傷付いてしまったんです。そうしたら、ベースのヤツがベースを持ちながらバーッと走って、投げて捨てようとしたんですよ。でも、ベースを持ち上げたまま涙を溜めて、捨てるのをやめてリアカーに戻したんです。子供ながらに捨てられない事情があったんでしょうね。今でも忘れられない光景ですよ。あれは青春だったなぁ(笑)。
オノ・ヨーコをも震撼させた超絶ステージング
──当時はどんな感じの曲を演奏していたんですか。
K:全然覚えてないけど、オリジナルでした。ちゃんと日本語で唄っていましたよ。納屋かどこかで練習してね。アンプに4つインプットがあると、ギター、ベース、歌と全部一緒に突っ込んじゃって(笑)。そんなレヴェルだったけど、その慰問からプロになってステージに立つまで1年ちょっとしかなかったですね。早かったですよ。16の時から地方でドサ回りをやって、17の時にやったツアーでゲストで来たのが内田裕也さんだったんです。初期のフラワーズですね。麻生レミとか、もう亡くなっちゃったけど小林勝彦さんとかがいて。その時に裕也さんにメシを食わせてもらったりしたんだけど、小林さんのスティール・ギターが最高に上手くてね。この音に勝てないと自分のステップ・アップは無理だと思って、小林さんを乗り越えたくて、生音の聴いた感じが凄くなるように練習したんですよ。誰よりも図太い弦を張ってね。
──外道と裕也さんと言えば、1974年8月の『ワンステップフェスティバル』をすぐに連想しますが。
K:外道が『ワンステップ〜』に出た時に、オノ・ヨーコさんが外道を見てブッ飛んで、裕也さんに「凄いバンドがいる!」って話したそうなんです。それで裕也さんが、これは絶対に外道に会いに行かなくちゃいけないということで会いに来てくれたんですよ。裕也さんはもちろん外道が誰だか知らなかったんだけど、俺を見るなり「何だ、お前か!」って(笑)。そんな縁もあって、後のジェフ・ベックとの共演まで繋がるんです。だから、ミッキー・カーチスよりも裕也さんのほうが付き合いは長いんですよ。
──衣装は着物、ステージには鳥居を置くというジャパニーズ・オリエンタルなスタイルは当初から明確にあったんですか。
K:それはずっと俺の頭の中にありました。エムにいた頃からまずオリジナルじゃなくちゃダメだと思っていたし、コピーなんてやっている場合じゃないと思った。当時はまだ純然たる日本のロックはなくて、英語の曲を唄うのがロックだったわけです。でも、それは違うぞと。ちゃんと日本語で唄って、海外の猿真似にならない自分たちのサウンドを作って、言葉も思想もスタイルもサウンドもギターの音色もすべてオリジナルじゃなければ意味がない。その当時俺が思っていたのは、仮にジミ・ヘンドリックスやミック・ジャガーと共演した時でも引けを取りたくないということ。どんな相手であろうが常に相手をKOさせるような自分でありたかった。
──そのためには欧米のロックを安易にコピーしている場合じゃないと。
K:そういうこと。さっきも言ったように俺は体育会系で、マラソンでオリンピックに出たかったんです。16、7の頃にもその夢を捨てていなかったから、朝と夜中にギターを持って走っていたんですよ。マラソンだけやるとギターが練習できないし、ギターだけ練習するとマラソンができないから。両方とも同じくらい時間を掛けたいけど、1日は24時間しかないですからね。だったら両方を一緒にやればいいんじゃないかって(笑)。マラソンを4時間、ギターを4時間やるよりも、両方一緒に8時間やるほうがもっといいんじゃないかと思った。だからむちゃくちゃ体力があったし、本気でオリンピックに出たかったんです。でも、高校の頃に全国で3位に入る選手と走っていて、この先社会人になってもまだ上はいるだろうし…とか考えたら、ちょっとオリンピックは無理かな? と思うようになって(笑)。それで途中からギターに専念することにしたんですよ。
──外道のあの激しいパフォーマンスは高校時代に培った基礎体力が支えていたわけですね(笑)。
K:あの当時、ローリング・ストーンズをイギリスで見てきた友達が「ミック・ジャガーは3メートルしか動いていなかった」って言っていたんですけど、その頃の俺はギターを持ちながら50メートルくらい走り回っていましたから。秋葉原で素材を買って、自分で作っていたギターのシールドも50メートル(笑)。普段走りながら弾いていると、黙り込んで弾くことができないんです。恐らく、コタツに入りながらギターを練習している人はステージにコタツを持ち込んで、そこに入ったほうがいいギターを弾けるはずなんですよ。俺の場合は外で走りながら弾いていたのが普通だったから、屋外のライヴのほうが好きなんですよね。屋内だと狭くてやりづらい。