歌謡曲に対するアンチテーゼとして生まれた日本のロックを誰しもが暗中模索しながら確立していった1970年代初頭に、着物・鳥居・万歳三唱という特異すぎるほど特異な出で立ちと凄みに満ちた超絶のライヴ・パフォーマンスで観客の度肝を抜き、際限まで研ぎ澄ませた鋭角的な爆音で当時の抑圧された若者たちを狂熱の渦へと引き摺り込んだ外道。彼らこそ欧米ロックの模倣と揶揄されていた日本語のロックを真の意味で土着化させた第一人者と言えるだろう。
そんな日本のロック史を語る上で絶対に欠くことのできない彼らが、実に29年振りに新宿ロフトの市松模様のステージに還ってくる。未曾有の国難に見舞われた2011年の我が日本で外道が放つ渾身のメッセージとは何なのか。ロックが市民権を得て巨大産業となる前にロックをロックたらしめていた真髄とは何だったのか。純国産ロックの栄枯盛衰を見守り続け、常にその最前線に身を置く外道のブレーン、加納秀人にたっぷりと話を訊いた。(interview:椎名宗之/photo:山村行平)
ロフトは一番格好いいハコだった
──新宿ロフトの過去のスケジュールを調べると、加納さんが初めて新宿ロフトに出演したのは1978年3月10日で、加納秀人&His Bodys名義でした。外道としては1981年から82年にかけて計5回出演して頂いていますね。
加納秀人(以下、K):そう、ロフトは随分と久々なんですよ。俺が外道をやる前にエムっていうバンドをやっていた時はまだ新宿ロフトが出来ていなかったですよね。
──そうですね。第1期外道が野音でラスト・ステージを行なう2週間ほど前の1976年10月1日に新宿ロフトはオープンしたんですよ。
K:1969年、70年頃の俺は、1年のうち10ヶ月くらいは新宿にいたかもしれない(笑)。友達の家を転々としながらライヴをいっぱいやっていましたね。当時、グループ・サウンズ全盛期の日本で一番ハープが上手かった成田賢というザ・ビーバーズのヴォーカリストがいて、彼が肺結核で入院している時に病院から抜け出させて一緒にいろんなバンドとジャムをしに行ったんです。あの頃の新宿はもの凄くエキサイティングな街でね。23時くらいにライヴが終わっても、それからみんなで集まって、サンダーバードっていうゴーゴークラブで朝までジャムっていた。年がら年中、もう毎晩のようにね。外タレが日本に来ると、そこで一緒にジャムをやったりとかして。60年代の後半から70年代の頭にかけて、新宿のそういった場所で新しいうねりが巻き起ころうとしていたんですよ。
──その台風の目の中に加納さんはいらっしゃったと。
K:今思うと笑っちゃうくらいに錚々たる面子がアシベとか新宿界隈でライヴをやっていたんですよ。グループ・サウンズは客が女の子ばかりで凄い人気だったけど、俺らが出ていくとみんなトイレに行っちゃうんです(笑)。でも、ミュージシャンや男の子たちは俺らのライヴを食い入るように見ていましたけどね。テンプターズとか寺内タケシとバニーズのメンバーとか、ホントにいろんなグループ・サウンズのミュージシャンが俺たちのライヴを見て勉強していたんです。「俺たちよりも10歳くらい上のくせに、何で見に来てるの?」って彼らに直接訊いてみたことがあって、「勉強しに来た」ってはっきりと言っていましたからね。
──そんな新宿にロフトが根を生やして今年で35周年を迎えるのですが、ロフトに対してはどんなイメージを抱いていますか。
K:やっぱり、あの時のロフトは一番格好いいハコだったんじゃない? 一番生き生きとしていた、そんな感じがあった。
──とは言え、当時の外道はライヴハウスよりもスタジアム・クラスの大きな会場でライヴをやっていた印象が強いですが。
K:実際そうで、何万人クラスのスタジアムみたいな場所が多かったんです。でもある時、「小さい所でライヴをやってみたい」って誰かが言い出したんですよ。ずっとデカい所でやってきたから、そういうのも面白いと思って、最初にやってみたのが屋根裏だったのかな。その時はあまり告知しないでやらないと大変なことになるかもしれないって言われて、ほとんど告知をしなかったと思うんですけど、それでもやっぱり大変なことになっちゃってね(笑)。何せ会場に着いても人がいっぱいで、外に入れない人が4、500人くらいいて、中も廊下も人でごった返していたんです。ステージまで行くのに2時間くらい掛かったんですから(笑)。今でもよく覚えているのは、あと20メートルくらいでステージなのに、30分くらい掛けても行けなかったこと。何とかライヴを始めても目の前にビッチリと客がいるから、まるで身動きが取れない。外道のライヴなのに(笑)。ちなみに、その時の動員記録は未だに破られていないそうです。ライヴハウスは他にも曼荼羅とかでやったんですけど、同じようにどこも全部エライ目に遭ったんですよね(笑)。
外道前夜、“エム”の時代
──ただ、『拾得LIVE』を聴くと、狭いハコならではの臨場感が真に迫る勢いで伝わってきますよね。
K:ある日、京都にいる時に朝から撮影があった後にライヴだったんですよ。「どこでやるの?」って訊いたら「拾得だよ」って言われて。行ってみたら蔵みたいな所で、そこも腐るほど人が入っていたんです。しかも、そこでレコーディングをやることを直前まで知らされてなくてね。「レコーディングなんて知らないよ」って言ったら、ミッキー・カーチスに「いつもの曲でいいから」なんて言われて(笑)。
──そんな場当たり的な感じだったんですか!?(笑)
K:だって、外道の1枚目(1974年8月、横浜野外音楽堂でのライヴ)もレコーディングがあるのを俺はちょっと前まで知らなかったくらいだから(笑)。そもそもレコーディングっていうのが俺はあまり好きじゃないんですよ。あの当時はレコードを出すことにも興味がなかったし。まぁ、1枚目を出す前に『にっぽん讃歌』というシングルを1枚出していますけどね。実を言うと、エムを辞めた理由もレコーディングだったんです。
──どういうことですか。
K:俺はたった3ヶ月しかエムに参加しなかったんですよ。16、7の時に俺より7つか8つくらい上の人から「日比谷の野音で一緒にやってくれないか?」ってお願いされたのが最初。それ以来、連日デカいコンサートばかり出たんだけど、俺は曲を知らないでやっていたんですよ(笑)。そりゃそうでしょう、野音の前日に「一緒にやってくれないか」なんだから。あの当時はリハーサルをやるとか、そういう感覚もなければ譜面もない。ステージに立って他のメンバーの演奏を聴きながら弾くだけですよ。でも、それが不思議と思わない時代だった。演奏できて当たり前、できなきゃおかしいくらいの感覚でしたからね。後にイエローをやることになるヴォーカルのタカ(垂水孝道)は俺がいた時のエムが一番輝いていたって言うし、俺が参加した全国ツアーは加納秀人ツアーだったと俺に言ってくれたことがあったんです。エムの音楽の流れを変えてくれたって。
──それでもバンドを脱退することになったのは?
K:エムは1枚だけアルバムが出ているんですけど、そこに入っているのは荒木一郎が書いた曲なんです。俺は“何だ、それは!?”と思ったんだけど、メンバーが曲を書けないって言う。曲が書けないなんて致命的だし、最悪だし、「お前ら才能ないな!」って言って辞めたの(笑)。エムを辞めた最大の理由はそこだったんですよ。俺はオリジナルがやりたかったし、グループ・サウンズみたいに他人からもらった曲をそのままやるスタイルなんてイヤだった。それで辞めることにしたんだけど、辞めさせてくれない。どうしても辞めさせないって言うから、その直後の野音のステージで一音も弾かないことにしたんです。ガンガンにノッている数千人の前で、黙ってただ突っ立っているだけ(笑)。結局、最後の最後まで何も弾かなかったですよ。俺がほとんどソロを取っていたんだけど、後にゴダイゴに入る浅野(孝巳)が替わりに一生懸命弾いていましたね。
──後にイエロー、ファニー・カンパニー、ゴダイゴ、そして外道になるメンバーが在籍していたのだから、エムは紛うことなき実力派バンドでしたよね。日本初のフリー・ソウルとも言うべきハーモニーも美しくて。
K:もちろん凄くいいバンドでしたよ。演奏はあの時点の日本で一番上手かったね。圧倒的に上手かったですよ。まず何より歌がいい。北島三郎クラスのヴォーカリストが3人いるような感じだったから(笑)。クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤングの曲をやると、オリジナルよりも俺は好きだった。ハモるとめっちゃ良かったですね。スティーヴィー・ワンダーの曲をやっても強烈に良かったけど、如何せんカヴァーばっかりでオリジナルがなかったんですよ。