東京という街が自分の人生を切り拓く戦場のように感じた
──『ストリート・キングダム』が1986年に初刊行された当時、反響はかなりあったんですか。
地引:全然なかった。周囲の友人が褒めてくれたくらいで。
──本業は写真家ですし、文筆作業に本格的に取り組んだのはこれが初めてだったんですよね?
地引:リザードの『彼岸の王国』というテレグラフから出したライブ音源集に封入したブックレットに、リザード年代記という文章を書いたことがあったくらいかな。
──復刻版から18年ぶりに再読して感じたのは、対象と一定の距離を保ちつつ写実的な筆致に徹し、目の前で繰り広げられている現象を生々しく伝える文体が実に見事だなと。時に文学的であり、レーベルという新たな発信基地で地引さんが七転八倒する読み物としての面白さもあるし、資料的価値も極めて高いという日本のパンク/ニューウェイヴの第一級史料と言えるのではないでしょうか。
地引:自分では『彼岸の王国』で書いたリザード年代記の出来に凄く満足していてね。でも『ストリート・キングダム』に書き下ろした文章は充分な推敲ができなかった。毎日のように『ミュージック・マガジン』の編集者が当時住んでいた西荻窪のアパートまで出来上がった原稿を取りに来て。全章出来上がったら読み直して手を加えたいと考えていたんだけど、そんな余裕もなかったから。
▲1979年12月1日、新宿ロフトでワンマンを行なったリザード(撮影:地引雄一)
──第1章の中の「東京ロッカーズの時代」のくだりが顕著ですが、都市生活者のための音楽=ロックが持つリアリティの重要性を繰り返し説いているのが印象的ですね。東京が日本の都会の象徴ではなく、自分たちの生活の場としてのいちローカルという解釈も非常に納得のいくもので。
地引:そこを汲んでもらえるのは嬉しいね。それ以前に農村を撮影したり、1年近く日本中を放浪していた時代の経験もあると思う。秋田と岩手にまたがる八幡平の民宿で働いたりして、一冬過ごしたりね。そういう経験を経た上で、都市の音楽として成立しているロックに強い関心を抱くようになった。
──「ビートとはすべての行動に表れる都市の精神の鼓動なのだ」という一文はまさに至言だと思うし、「音楽を演奏する者だけでなく、街(ストリート)のビートを呼吸し自分の生き方を切り開いてゆく者すべてがロッカーなのだ」という一文は、1950年代後半から1960年代中頃にかけてロンドン近辺で流行したモッズ=モダーンズの定義と重なる部分もあるように感じるんです。
地引:大学から東京で暮らしていたけど、生まれ育った千葉辺りじゃ東京は近すぎるから中途半端だった。1時間も電車に乗れば帰ってこれるしさ。でも福島や秋田となればそうはいかないし、70年代当時に東北から東京へ出ることは一大事だった。そうした地方からの視点を持ったことで東京という街が自分の人生を切り拓く戦場のように感じて、ちょうどその頃にロックを熱心に聴くようになった。それまでは岡林信康や長谷川きよしといったフォークソングばかり聴いていた。
──『ストリート・キングダム』はそもそもどんな経緯で刊行されることになったんですか。
地引:『ミュージック・マガジン』の編集者だった藤田正さんに声を掛けてもらった。それまでの5年間、僕は『ミュージック・マガジン』に干されていたんだよ(笑)。ジャンク・コネクション(1980年に地引、ゼルダの小嶋さちほを中心に設立されたレーベル)から絶対零度の7インチを出したんだけど、そこに入れていた小冊子の中でマネージャーが『ミュージック・マガジン』の悪口を凄い書いていた(笑)。絶対零度のライブが『ミュージック・マガジン』に酷評されて、編集部へわざわざ文句を言いに行ったとか。こっちとしてはバンドのやりたいことをそのまま出すのがインディーズだというつもりでやっていたからバンド側の意向を汲んだまでのことだったんだけど、『ミュージック・マガジン』としては僕が編集部を中傷した仲間だということで、それから一切仕事が来なくなってしまった。そんな頃に藤田さんが道を拓いてくれて、まず1年間連載をやらせてもらうことにした。それが今回の〈最終版〉に追加掲載された「地引雄一の現場報告」というコラム。1985年3月号から始まったんだけど、当時はもうインディーズがブームになっていた頃。ただスターリンやじゃがたらが台頭してきた辺りは『ミュージック・マガジン』でもパンク系のバンドを扱わなくなっていたし、藤田さんによると当時はパンクに興味を持つ編集者が他にいなかったので僕に声を掛けたという。編集部内で唯一パンクに興味を持っていたのは中村とうようさんだけだったみたい。とうようさんは新たな音楽の動きも含めて全般的に捉えていこうという人だったので。
──「地引雄一の現場報告」の最終回(1986年10月号)が『ストリート・キングダム』全体の総括のようでもあり、〈最終版〉を締め括る意味でも相応しいですね。
地引:〈最終版〉に何か付け加えなきゃいけないなと考えていたところに、そういえば「現場報告」のコラムはまだ陽の目を見ていなかったなと思い出してね。サディ・サッズ、くじら、チャンス・オペレーション、あぶらだこといったバンドを紹介していて映画とは関係がないし、よりマニアックになってしまうかなとも思ったんだけど、自分の本なんだからいいかなと。FUJIYAMAの店内写真を載せた「現場報告」14回目の最終回は『ストリート・キングダム』の初版が出た後に書いたもので、最終回をまだやっていなかったので書いてくれと頼まれてね。いま読み返すと、「当分レコード制作を休止することにした」と書いてあって驚いた。自分ではもうちょっと長くやっていたつもりだったんだけど、37歳の時点でテレグラフをやめる決意をしていたんだね。
写真は印刷されて不特定多数の目に触れるのが一番面白い
──とは言え、1995年に『EATER』を創刊するまでレーベル事業と完全に決別したわけでもなかったですよね。
地引:ディスクユニオンの中にDIWというレーベルがあって、もともとはジャズ専門だけどロックもやりたいということで、1987年にレーベル・プロデュースを頼まれた。そこでZOOMというレーベルを立ち上げ、復活したリザードのアルバム2枚、あけぼの印、のいづんずり、グンジョーガクレヨン、スピアメンのリリースを手伝った。テレグラフでやり残したことを清算する感じだったね。
──地引さんが自ら居場所を離れても、向こうのほうからやってくる不可抗力な何かによって現場へ呼び戻されるケースがたびたびあるように感じるのですが。
地引:そうだね。そもそもインディーズのシーンにどっぷり浸かるつもりもなかったし。シーンと関わりを持つようになった最初の年の大晦日に下北沢ロフトで行なわれたライブ(『東京ロッカー1978大詰めラストライブ』)辺りでようやく自分らしい写真を撮れてきた手応えがあった。別にライブ写真を撮りたいわけじゃなかったけど、シーンの状況とそこに蠢く人たちの息遣いみたいなものをやっと撮れてきたかなと感じた。そうした対象を1年ほど撮り続けてまた新たなテーマへと移行しようと考えていたんだけど、掲載されるのを目標としていた『カメラ毎日』が1985年に休刊となってしまった。『アサヒカメラ』や『日本カメラ』といったカメラ雑誌が他にもあったけど、自分が愛読して本当に面白いと感じていたのは『カメラ毎日』だけだったからね。展覧会をやる発想も自分にはなかったし、写真はやっぱり印刷されて不特定多数の目に触れることが一番の面白さだと僕は思う。誰が撮影したかなど関係なく、その写真を見た人の記憶に残り続けることまで含めての面白さ。僕がそれを一番感じたのは、『DOLL』の読者欄に僕が撮ったミチロウの写真を基に描いたイラストの投稿が載ったとき。ミチロウが裸で横たわって唄うところでね(笑)。
▲1981年8月27日、新宿ロフトでのザ・スターリン(撮影:地引雄一)
──Comic Stripから発売された“解剖室Tシャツ”に使われた写真ですね。
地引:そうそう。僕が見た場面を撮影して、その写真を見た人の記憶に残って今度は絵になっているというのが凄く面白く感じた。そういう形で写真が広がるのが一番楽しい。
──写真の記名性は不要であり、和歌で言えば詠み人知らずで良いと。
地引:そんなところかな。話を戻すと、ディスクユニオンでのレーベル・プロデュースを経て、ロックに対する熱意が次第に薄れていったのは、やっぱり1990年1月にじゃがたらの(江戸)アケミが亡くなったことが大きい。アレルギーのU子(久保優子)もその2年後にフランスで亡くなってしまったし、一つの時代が終わってしまった感覚が強く残った。
──1990年代前半はどんなことをされていたんですか。
地引:『ミュージック・マガジン』の仕事をしたり、JASRACの会員でもあったのでテレグラフの著作権管理をしたり。友川カズキさんがP.S.F.からリリースしていた頃、ちあきなおみさんへ提供した「夜へ急ぐ人」の楽曲管理をレーベルから頼まれたこともあった。あとは音楽之友社の中高生向け教科書の仕事をしたり、バリ島の文化に惹かれて現地を訪れて撮影してみたり。そんなところへ某出版社の人からじゃがたらの本を作りたいと相談を受けたんだけど、諸事情で頓挫してしまった。でもその流れで出版事業を仲間内で立ち上げることになり、そのときのメンバーの一人が雑誌を作りたいと言い出した。ところがその言い出した本人がいろいろあって編集作業ができなくなって、仕方なく僕が編集を受け持つことになった。それが『EATER』。記念すべき『EATER』第1号は、実は特集が「日本の殺人者100人」になる予定だった(笑)。もともと編集をやるはずだった人の企画で、台割までできていた。でも自分が編集を手がけるのならやっぱり自分だけにしか伝えられないものがいいと考え、それは何だろうと言えばやはり音楽だろうと。
──それでミチロウさん、町田康さん(当時は町田町蔵)、Phewさん、巻上公一さんといった面々のインタビューを掲載した「ROCK SURVIVORS/ロックの果てから」という特集が組まれたと。
地引:うん。自分の中で東京ロッカーズから続く一連の動きというのは新たな音楽のトレンドに限らず、あらゆる表現が混然となった日本の文化運動だと感じていた。そのムーヴメントを音楽業界という狭い社会の中の出来事で終わらせてしまったことが僕は凄く残念だった。だからミュージシャン主体ではあったけれども、もっと幅広い視点で研ぎ澄まされた感性や行動力を持った人たちに話を聞いていこうと思った。日本のパンクを一つの起点として生まれた新しい流れ、サブカルチャーも含めたオルタナティヴな文化を担う人たちを取り上げたかった。『ミュージック・マガジン』でアケミや町蔵、石井聰亙(現・岳龍)さんの取材をした経験は多少あったけど、本格的なインタビューは『EATER』が初めて。最初のインタビューは勝手知ったるジュネ(オートモッド)だったけど、親しすぎて踏み込んだ話をしなかったのであまり面白くできなかったかなと。やがて何人かインタビューして気づいたのは、その人なりの話のリズム感やその人なりの呼吸があるということ。それは音楽と同じだなと感じて、なるべくその人の話し方を活かした文章にしようと心掛けた。
















