フリクションのレックから学んだ未知なる斬新な視点
──地引さんが影響を受けたのはどういった写真家なんですか。
地引:日本だと東松照明かな。海外ならアメリカのブルース・デビッドソンという人。彼がニューヨークのハーレムにある貧困地区で撮影したモノクロの人物写真が好きでね。その写真が大型カメラで撮影されたものだったので、僕も農村の撮影にシノゴ(4×5インチ)の大型カメラを使った。写真学校へ通っていた頃に自分の好きな写真と同じように写真を撮るという課題があって、大型カメラを学校に借りて、浅草寺の本殿の左側にいた露天商の人たちを撮らせてもらった。その手法を農村でも使ってみた。カメラの精度が高いからきめ細やかな写真が撮れるし、どこの農村の家にも飾ってあるご先祖の写真や養蚕研究所に勤める人たちの集合写真などを見ると、僕にはそれが写真の原点のように思えた。当時はスナップ写真が主流で、スナップ写真へのアンチテーゼとしてブレたりボケたりしたコンポラ写真が流行りだった。でもそれもやり尽くした感があったし、それなら写真の原点に遡ってみるのも面白いと思った。あえて三脚と大型カメラを使い、「こっちを見てください」と伝えてシャッターを切る手法が面白いんじゃないかと。そのほうが一瞬のスナップを切り取るよりもそこに暮らす人たちの生活や人生、文化が写り込むんじゃないかと思った。被写体との距離や露出計で光を測ったりする作業もむしろ儀式的な感じがして面白かった。
──ライブ撮影は一瞬を切り取るのが勝負だから、手法は真逆ですよね。
地引:うん。だから最初はどう撮っていいか全然わからなかった。リザードはまだ70年代のアングラな香りが残っていたからその世界観が切り取りやすかったけど、フリクションは自分の想像も及ばない感覚というか、凄いことはわかるんだけど、どういう感覚でどう捉えたらいいのか皆目見当がつかなかった。だけどその試行錯誤はやりがいがあったし、レックに教えられたことも多かった。撮った写真をベタ焼きにして渡すと、レックがいいと丸を付けるのは自分なら絶対に選ばない写真ばかりでね。たとえばこの、左側のレックが見切れていて、右半分がドラムセットしか写っていないガラーンとした写真とか(と、Record shop BASEから刊行された写真集『JIBIKI YUICHI FRICTION 1978-1985』の中の1枚を見せる)。でもこれを引き伸ばしてみると、どこか不思議なエネルギーがある。ドラムはあるのにヒゲがいないんだけどね。ドラムヘッドが破れたか何かでヒゲが怒って帰っちゃったらしいんだけど(笑)。
▲1979年5月24日、新宿ロフトでのフリクション(撮影:地引雄一)
──写りの良さよりも充満したエネルギーが伝わる仕上がりを優先する、当たり前の構図にはないエラーの美を重視するというか。
地引:綺麗に撮れていたり、ピントや構図がいいとかではない何か……その空間の持つ熱みたいなものを感じられるかどうか。レックはデザイン学校へ通っていたし、いい写真も撮るしね。音ばかりだけではなく表現全般においてもそれまでの自分になかったものをレックは持っていて、そういう未知のものを彼から吸収できたことは凄く勉強になった。
──恒松正敏さんも東京芸術大学で油画を専攻して画家としても活躍されていますから、フリクションは音楽だけでなくアート全般に造詣の深い面々が揃っていたんですね。
地引:マッチャン(恒松のこと)が脱退した後にはデザイナーのシェルツ・ハルナ(春名周作)君が加入するしね。彼は音楽をやったこともないのに、たまたまボンゴを買ったらバンドに入れと言われたらしい(笑)。
▲1981年7月13日、新宿ロフトの入口に佇む魚男(撮影:地引雄一)
──2008年12月にK&Bパブリッシャーズから復刊された『ストリート・キングダム』の表紙を飾る“魚男”に扮していたことでも知られるハルナさんですね。
地引:うん。サウンドやヴィジュアルをすべてひっくるめて一つの表現として成立させることをフリクションから学べた。レックたちが編集していた『WATCH OUT』というミニコミも独自のデザインセンスで、フリクションの音に通ずるものがあったね。
1980年代初頭、自分たちでレーベルを発足する必要に駆られた理由
──それにしても、1986年の初版、2008年の復刻版、今回の最終版と三度にわたって刊行される本もなかなかないですよね。
地引:有難いことだね。今回は映画の公開に合わせて入稿作業を進めたので大変だったけど(笑)。
──初版が刊行された80年代中頃といえば、1985年8月にNHKで『インディーズの襲来』という番組が放送され、ラフィン・ノーズ、有頂天、ウィラードがインディーズ御三家と呼ばれ、インディーズが市民権を得た時代と言えますね。『DOLL』のシティ・ロッカー、『宝島』のキャプテンといった出版社がレーベルを発足させるケースが続き、スターリンのタムさん主宰のADK、先ほど話に出たナゴムやトランスといったバンドマン発信のレーベルも続々と頭角を現すなど隆盛を誇るのと入れ替わるように、地引さんはインディーズの在り方に疑問を抱いてテレグラフの事業から撤退してしまう。インディーズ・レーベルの先駆者である地引さんが好機の波に乗らなかったというのがとても象徴的なことに思えるんです。
地引:レーベルのオーナーなんて言っても、レコードを車に積んでレコード屋を回り、商品を卸して集金するという地道な作業だからね。夜中の2時、3時まで帳簿を付けたりさ。こんなことをやるためにインディーズのシーンに飛び込んだのか? という思いがやがてどんどん募っていく。自らレーベルを作ったのも別にレコード会社の社長になりたかったわけじゃなく、シーンを活性化させるために自分たちでレコードを作れる環境を整えることが凄く大事だと思ったから。たとえばジャン=ジャック・バーネルがプロデュースしたリザードのファースト・アルバムは、バンドが原盤制作を行なうためにレコーディングの渡英費用を含めた多額の資金を自分たちで準備する必要があった。それが後にバンドの崩壊に繋がって、借金を払えなくなったカッチン(塚本勝巳)が失踪することにもなるんだけど。僕もリザードのマネージャーに10万円ほど貸して、4万円くらいしか返ってこないままいなくなっちゃったしね。フリクションが在籍したPASSレーベルも、その母体だったジョージアというレコード屋が潰れてしまった。そういった悲劇を至る所で目の当たりにしていたので、自分たちでレーベルを発足する必要に駆られていたわけ。
▲1979年9月1日に行なわれた『DRIVE TO 80s』5日目(撮影:地引雄一)
──先駆者なりのご苦労は多々あったと思いますが、シーンがまだ更地で明確なルールが整備されていなかった手探りの時代だからこその面白さはあったんじゃないですか。それが映画で描かれた青春期独自の眩さにも繋がるのでしょうし。
地引:当時、業界ニューウェイヴという言葉があって、ヒカシューやP-MODELといった本物は別として、スタジオ・ミュージシャンを集めて無理やりニューウェイヴ・バンドを作ってデビューさせる動きがいくつもあった。そういうのに不信感を覚えたし、当時は音楽事務所に所属しないとレコードを出せなかったし、8 1/2(ハッカニブンノイチ)やフールズといった凄くいいバンドがメジャー・デビューできない歯痒さを感じていた。だからインディーズでレコードを出せるシステムを自分たちで作り、そこで得た利益でバンドが生活していくことができないだろうかという気持ちでテレグラフを始めたんだよね。だけどリリースを続けていくと、今度は資本との闘いを余儀なくされる。テレグラフが失敗した大きな原因は、量的拡大を目指しすぎたことなんだよ。
──テレグラフ内に設立したヴェクセルバルグからG-Schmittをリリースした頃ですか。
地引:その前だね。キャプテンが台頭してきた辺りから。でも『宝島』を引き込んだのは実はこっちからだったんだよ。『宝島』で最初にインディーズの広告を打ったのもテレグラフだったしね。1ページ=10万円という当時では格安の値段だったんだけど。で、テレグラフのスタッフに宮部知彦君という音楽ライターがいて、彼が『宝島』の編集部にインディーズのページを作らないかと持ちかけたの。毎号載せるうちに人気が出て、増刊で出したバンド名鑑が凄く売れたことでインディーズは商売になると踏んだらしい。それで『宝島』が徐々にインディーズへ参入してきた。それとエジソンという輸入レコード屋。エジソンはもともとウエストコースト系の音楽に強い下北沢のレコード店だったんだけど、宮部君が親しかったのでインディーズも扱ってもらうことにしたら凄く売れて、社長が色気を出してきた。エジソンの社長に直接言われたからね。「パンクやニューウェイヴには何の興味もないし、売れるからやってるだけだ」って(笑)。結局はこっちが引き込んでしまって、インディーズがお金になることがわかると資本力の強い所がどんどん介入してくるという図式。最終的にはメジャー・レーベルが組織の下のほうにインディーズ・レーベルを作って、ライブハウスで青田買いをしてデビューさせることを繰り返す。そのインディーズ・ブーム以降に出てきたバンドは実質的にメジャーがお膳立てしたところからのし上がっていくのが当たり前になって、本来はメジャーとは別の価値観を生み出していくべきなのに、単なるメジャーの下部組織に属する存在に成り下がってしまった。レーベルもライブハウスも、バンドがもっと上のメジャーへ行くための足がかりになってしまったのは残念だったね。
















