銀杏BOYZも東京ロッカーズの流れを汲むバンドなのかもしれない
──地引さんの著作を原作としているのだから当然なのですが、東京ロッカーズというムーヴメントとその後に続く80年代のインディーズ・シーンという複雑な人間模様が入り乱れる群像劇を、地引さんを狂言回しにすることで客観的視座とする構成が上手いなと思ったんですよね。
地引:最初はもっとドキュメンタリー性の強い話になると聞いていたんだよ。2017年に初めてトモロヲ君、宮藤君、映画のプロデューサーの4人で会って、当時はこういうことがあったみたいな話を僕がしながら物語を組み立てていくシナリオ・ミーティングみたいなものがあってね。その時点で一番ドラマ性の高いリザードの話をメインにするのがいいんじゃないかと話したけど、それをそのまま落とし込むのではなく、当時の時代背景を基に架空のバンドを登場させるフィクションの物語にするのかと僕は思っていた。その中で東京ロッカーズのムーヴメントが実話として挿入されていくみたいな形というか。トモロヲ君は『24アワー・パーティ・ピープル』(ファクトリーレコードの社長だったトニー・ウィルソンの回顧録を基に、マンチェスター・ムーヴメントを描いた劇映画)が好きで、ああいう映画を作りたいと話していたね。その打ち合わせを経てシナリオの第二稿が届いたら、ほぼ実話を基にした物語になっていて、しかも自分まで出てきてびっくりした(笑)。
──「東京ロッカーズの映画なのにスターリンやじゃがたらのことまで入っている」みたいに的外れなことを言う人もいるようですが、そもそも地引さんの原作本は「東京ロッカーズと80'sインディーズシーン」というサブタイトルなのだから全く間違っていませんよね。東京ロッカーズに端を発したインディーズ・シーンの栄枯盛衰を描いているわけで。
地引:東京ロッカーズというワードがキャッチーなので、宣伝として使いやすいんだと思う。「わずか1年の間に、のちの音楽シーンに影響を与えた東京ロッカーズ」といった感じで。実際の映画に東京ロッカーズと呼ばれるムーヴメントが描かれるのは前半の半分くらいで、あとはリザード(劇中名:TOKAGE)を中心とした物語だからね。
──先ほど「事実と違いすぎる部分は直してもらった」とお話しされていましたが、具体的にどんな部分だったんですか。
地引:たとえばリザードの「SA・KA・NA」のジャケットは最初は僕が撮ったことになっていたので、あれは自分が撮った写真じゃないことを伝えたり。あと、スターリン(劇中名:解剖室)の学園祭のステージを終えた遠藤ミチロウ(劇中名:未知ヲ)がパンツを探しているシーンが最初はあったけど、それもミチロウが全裸になるときは絶対にパンツを穿かなかったと指摘したり。それであの「表現者はパンツなんか穿かない!」という台詞に繋がったのかな(笑)。ちなみにミチロウは公然わいせつ罪で逮捕されたときも「パンツは普段から穿いてません」と警察に主張したらしいね。ライブのときだけ穿いていないと、最初から脱ぐつもりだった計画的犯罪だと受け取られてしまうから。そのときファンから下着類が差し入れされたんだけど、警察から「お前、パンツは穿かないんだよな?」と言われて渡されなかったみたい。その体験から「お母さん、いい加減あなたの顔は忘れてしまいました」の「パンツのはけない留置場は寒いです」という歌詞が生まれたという(笑)。
▲1979年4月22日に行なわれた『東京ロッカーズ』発売記念ライブ(撮影:地引雄一)
──峯田和伸さんの演技はいかがでしたか。
地引:最初はもっと若くて頼りない感じの役者が演じるといいんじゃないかと思った。峯田君の実年齢と当時の僕の年齢の開きが少し気になったし、峯田君は人前に立つミュージシャンで存在感もあるけど、僕はただの裏方だったからね。ろくに知らないロック・シーンへふらっと飛び込んで、あんなにアクの強い連中と交流を持ちつつ翻弄されて(笑)。でも結果的に峯田君に演じてもらって良かった。撮影前に僕の家へ来てくれていろんな話ができたし、僕も事前にGOING STEADYや銀杏BOYZの作品をできるだけ聴き込んでね。話を聞いてみると東京ロッカーズのことも凄く詳しくて。
──『CHANGE 2000』(1979年4月、小嶋さちほらによって創刊されたミニコミ誌)もお持ちだそうですね。
地引:そう、神保町の古書店で買ったとか言ってたね。それに『EATER』(地引が1995年に創刊し、2001年までに8号を刊行したオルタナティヴ・カルチャーマガジン)も愛読してくれていたみたいで。東京ロッカーズや東京ニューウェイヴはもちろん現役の世代ではないけど凄く聴き込んでいて。銀杏BOYZも途中からノイズ・アヴァンギャルド的要素が増して変化していったし、日本のニューウェイヴ、オルタナティヴの流れをちゃんと意識して体現しているんだなとわかって、ある意味、東京ロッカーズの流れを汲むバンドと言っても過言ではないと感じた。それにあれだけ人気があるのに、ずっとインディーズでの活動に拘っている。そういう活動ペースが可能になったことが僕としては感慨深い。映画の最後は希望に溢れた終わり方をしているけど、実際の80年代末期はインディーズにメジャーな資本が介入して、真の意味でのインディーズは壊滅してしまったわけだから。
──1986年7月にミュージック・マガジン社から発行された『ストリート・キングダム』の初版では、一大ムーヴメントと化したインディーズ界に向けて地引さんが警鐘を鳴らすというか、シーンの未来が明るくないことを懸念する文章で締め括られていましたね。
地引:今回の『ストリート・キングダム〈最終版〉』には原書刊行前後に『ミュージック・マガジン』で連載していたコラム(「地引雄一の現場報告」)を初めて再録したんだけど、『ストリート・キングダム』を出した直後にはもうテレグラフをやめているんだよね、皮肉なことに。1986年の時点ですでにインディペンデント・レーベルの在り方が本来の形を維持することが難しいと書いている。ピナコテカレコードもテレグラフより早く終わってしまったし、インディーズ第二世代と言うべきKERAのナゴムレコード、北村昌士君のトランスレコードも80年代末までに活動休止になってしまった。関西はインディーズ・ブームの影響を受けず、JOJO広重君のアルケミーを筆頭にいろんなレーベルが続いていたけどね。
地方の農村を撮り続けていた反動で都市の文化に着目した
▲映画の公開に合わせて刊行された『ストリート・キングダム〈最終版〉東京ロッカーズ80'sインディーズ・シーン』
──『ストリート・キングダム 自分の音を鳴らせ。』然り、『ストリート・キングダム〈最終版〉』然り、地引さんの撮影した写真には普遍的な魅力があることを今回再認識したんです。ぼくも映画のロケーション、茨城県行方市の旧私立北浦三育中学校に建てられた旧新宿ロフトの外観、体育館の中に作られた旧ロフトのステージとバーカウンターを見学させてもらい、そのあまりの再現度の高さに驚いたのですが、ロフトも屋根裏もS-KENスタジオも西部講堂も、地引さんの撮影した写真がちゃんと記録として残っていたからこそ美術スタッフのみなさんが精巧なセットを再現できたのではないかとも思って。
地引:現場へ行ったら僕の写真が至る所に貼ってあったね。ロフトからも数々の資料が提供されたと聞いたけど、ロフトの内装は客席の後ろにバーカウンターまで作ってあって、そんな所まで映らないのに凄いなと思った。
──ドナルド・フェイゲンの『The Nightfly』やクリームの『Disraeli Gears』といったロックの名盤がバーカウンターの壁に並んでいたのですが、よく見たらジャケットはどれもネコが擬人化したイラストで、こんなディテールにまで拘って作り込まれているんだと感動しましたね。
地引:そうそう。“キャット・ツェッペリン”とかさ(笑)。
▲1979年2月10日に新宿ロフトで行なわれた『TOKYO ROCKERS』(撮影:地引雄一)
──『ストリート・キングダム〈最終版〉』の前半には、東京ロッカーズから80年代のインディーズ・シーンの要人たちのライブショットが130ページ以上にわたり掲載されています。今の時代にはない昭和50年代ならではの各自の顔つきに人を惹きつける何かが宿っているのは確かなのですが、やはり地引さんの瞬間の切り取り方が見事で、明暗や濃淡で表現されるモノクロの迫力と相俟って異様な凄みを感じるんですよね。
地引:70年代末期、日本にもパンク・シーンが存在するべきだ、ないのなら自分たちの手でつくるべきだという時代の機運に巻き込まれてしまったんだけど、ちょうどそれまで自分が撮影すべきテーマを模索していたんだよね。都市で生活する中で自分の生き方なりアイデンティティとして何かを表現する人たちにフォーカスを当ててみたかった。まだ20代前半だった僕は日本の伝統文化への憧れがあって福島の農村とかに題材を求めて撮影をしていたんだけど、実際に田舎で生活している人たちは東京への憧れが強かった。若い子はみんな東京へ行きたいって言うし、福島から東京へ出稼ぎへ行くおじさんを車で送るときも「半年も家を空けて大変ですね」って言うと「東京のほうが遊ぶ所がいっぱいあっておもしれぇや」なんて平気で言う(笑)。
──その時代の写真が『別冊ele-king J-PUNK/NEW WAVE-革命の記憶』に掲載されていましたね。
地引:これね(と、『カメラ毎日』1978年9月号に掲載された福島の農村の写真を見せる)。当時、このカメラ雑誌の投稿ページに載るのが夢でね。これに載るのを目標としてカメラを続けていたところもあった。
──写真は昔からモノクロ主体だったんですか。
地引:というか、当時通っていた写真学校でも作品として写真を撮るならモノクロが大前提だった。コマーシャル写真ならカラーが当然だけど、自分でプリントして仕上げるならモノクロにするのが当たり前だった。
──モノクロは見る側に想像の余白が生まれる良さがあるし、カラーという直接的な表現ではないからこそ時代を超えた何かを感じられるのかもしれませんね。
地引:今やデジカメになってカラーが普通で、感度もいいし手ぶれも抑えられる。誰が撮ってもある程度のクオリティになるから均一的で、作品として成立させるのがデジカメだと凄く難しいよね。
















