亜無亜危異(アナーキー)のギタリスト、藤沼伸一が初めて映画監督に挑んだ作品『GOLDFISH』が3月31日(金)よりシネマート新宿、シネマート心斎橋ほか全国の劇場で順次公開される。日本にパンクロックを浸透させた先駆者である自身のバンドをモチーフとしながら、幼馴染み5人の人生交錯、モンキービジネスの光と影、早く燃え尽きて死ぬのが良いという若い時分の希死念慮、老いてもなお体現するパンクの在り方などが多層的に描かれる。なかでもエンターテイメントの世界の住人を窮屈な金魚鉢の中を泳ぐ金魚(="GOLDFISH")になぞらえ、娯楽や芸術の歴史とはそれらを巧みに誘導しながら利用する支配者と奴隷の主従関係によって成立してきたのではないかという藤沼監督ならではの考察に基づいたサブテーマが実に示唆に富んでいる。そんな堅苦しい話は抜きにしても、永瀬正敏、北村有起哉、渋川清彦、有森也実といった熟練の俳優陣による自然体でリアリティに溢れた演技は言うまでもなく素晴らしく、予想以上に忠実に描かれた亜無亜危異の軌跡が劇映画になるとこうなるのだという面白さや発見もある(実在のメンバーや関係者を思い浮かべると余計に面白い)。かつて新宿ロフトに通い詰めた方なら思わずほくそ笑んでしまうキャスト、昔からの亜無亜危異ファンなら気づくだろう随所の小ネタも楽しい。レジェンド・パンクロッカーの座に胡座をかくことなく、還暦を迎えてから映画監督という異業種に挑戦した藤沼に、本作『GOLDFISH』の完成に至る紆余曲折や見所などを聞いた。(interview:椎名宗之)
金魚は煌びやかで輝いて見えるけど、自由に川を泳ぐことはできない
──伸一さんは子どもの頃から映画を観るのが大好きだったそうですが、どんな作品が特に好きだったんですか。
藤沼:アメリカン・ニューシネマの作品群とかかな。何日か前に『バニシング・ポイント』の4Kデジタルリマスター版を観に行ったら、『GOLDFISH』とポスターが横並びになっていて、小さいときの自分に言ってあげたかったね。「大人になったら自分でつくった映画のポスターがアメリカン・ニューシネマを代表する作品の隣に貼られるぞ」って。あと、親父がヤクザ映画が好きだったから『仁義なき戦い 広島死闘篇』は封切りの日に観てた。一緒に観させられたっていうか。その延長なのか、韓国のノワール映画とかも好きだね。
──初監督作品の題材として自身のバンドを選んだのは、一番描きやすかったからですか。
藤沼:マリ(逸見泰成)が亡くなって今年で7年目になるんだけど、ご承知の通り当初は5人でライブをやる予定がダメになって、4人で“不完全復活”することになって。ちょうど活動を始めたところに亜無亜危異がデビューした当時のスタッフが声をかけてくれたんです。今は映画関係のプロデュースの仕事をしていて、映画を撮らないかと。それならノワール映画を撮りたいと言ったんだけど、そんなものは自分の金で撮れとか言われて(笑)。モチーフはあくまで亜無亜危異で、そのメンバーが監督する作品なら出資してくれるところがあるかもしれないという話でね。それならやってみようと引き受けました。
──映画を撮るならドキュメンタリーではなく劇映画にしようと最初から考えていたんですか。
藤沼:ドキュメンタリーを撮るにしても映像的な素材が足りないし、なんか観る側を限定してしまう気がしてね。最近だとFOOLSの映画(『THE FOOLS 愚か者たちの歌』)は面白かったけど、バンドのドキュメンタリー映画ってだけで凄くカテゴライズされちゃうっていうかさ。映画のテーマっていうのは地球上、世界中の共通項であってほしくて、たとえば暴力や失恋、親の死、セックスだったり、誰しもが共感共鳴できるものがいい。バンドだけがテーマだと、バンドに関係のない人には最初から観られなくなるから避けたかった。八百屋さんにも魚屋さんにも観てほしいから、バンドを題材にした劇映画、フィクションという形をとることにしたんです。その意味では陣内孝則が監督をやった『ROCKERS』に近いのかもしれない。
──亜無亜危異を題材にすることで気恥ずかしさみたいなものはありませんでしたか。
藤沼:特になかったね。これはあくまでフィクションだという考えだったから。『GOLDFISH』というタイトルがまず最初に思い浮かんだんだけど、“GOLDFISH”とは“金魚”のことで、つまりエンターテイメントの世界で生きる人たち…ミュージシャンでも俳優でもダンサーでも誰でも、狭い金魚鉢の中で生きる金魚みたいなものだと。金魚はそもそも鮒を人為的に品種改良した観賞用の魚だし、誰かが支配、管理して見せ物にしているエンターテイメントを生業にしている人たちを金魚の姿になぞらえている。遡れば18世紀の半ば、モーツァルトだって宮廷音楽家として仕えていたわけで、宮廷から「こういう曲を書け」と言われてそれに従ったからこそ生き延びられた。映画の冒頭でイチがスタジオに貼ってあるウッドストック・フェスティバルのポスターを見つめるシーンがあるけど、あのフェスの会場となる土地を提供したのはロックフェラーだったと言われている。金魚鉢を管理しているのは意外とそういう富裕層なわけ。そうやって支配する者、される者の構図は昔から何一つ変わっていないし、その縮図というか有様を『GOLDFISH』というタイトルに込めたつもりなんです。それなら題材を亜無亜危異にすれば伝わりやすいと思ったし、若くして死を望む、死に惹かれるのはミュージシャンに限らず芸術家にも多いじゃないですか。それは延々と金魚鉢の中にいる苦痛や苦悩にリンクさせられると思ったんです。金魚って結局、煮ても焼いても食えないし、何のために生きているのかと言えば見られるためだけに生きている。見た目は煌びやかで輝いて見えるけど、自由に川を泳ぐこともできないし、観賞用の金魚鉢の中でしか生きられない。
──エンターテイメントの世界には搾取する者、される者がいて、反体制であるパンクロックですらその構図は同じであるというのは、亜無亜危異が“不完全復活”後に発表した『パンクロックの奴隷』、『パンク修理』の世界観と相通ずるものがありますね。
藤沼:まあね。あの2枚は俺は9割方、作詞・作曲をしてるから。