来たる7月20日(水)に新宿LOFTで行なわれる『サニー&ウルフ青春狂騒ナイト!』。ガレージロック、パンクロックを分母に置いた狂気の鋭角ロックンロールを探求し続けるギターウルフ、あらゆるジャンルのエッセンスを貪欲に呑み込みながら極上のポップ・ミュージックに昇華させるサニーデイ・サービスという常人には到底思いつかない前代未聞の対バンが実現するわけだが、ギターウルフのセイジ、サニーデイ・サービスの曽我部恵一によるこの対談を読んでもらえれば、ジャンルや世代は違えどロックンロールをこよなく愛し、誰かが勝手に定めたロックンロールの狭い定義や鋳型から果敢にはみ出そうとするパンクスピリッツを身に宿した共通点が両者にあるのが分かるはず。また、かけがえのない盟友メンバーが鬼籍に入り、新たな仲間を迎え入れてバンドを続ける牽引者であること、ステージに立ち仲間たちと一緒に音を奏でることにいまだ大きな喜びを見出しているのも共通項だ。LOFTでの共演を目前に控えたセイジと曽我部に、三度目のコロナ禍の夏に抱くバンドの在り方や思いを聞いてみた。(interview:椎名宗之 / photo:MAYUMI)
ウルフが押してサニーデイの出番が遅れた初回の『ライジング・サン』
──お二人の接点らしきものがまるで見えないんですけど…(笑)。
セイジ:1回目の『ライジング・サン・ロックフェスティバル』(1999年8月)で共演したよね?
曽我部:はい。一緒に出たイベントはあれが初めてでした。
──サニーデイ・サービスが朝焼けのなか大トリを務めた初回ですね。その後も共演する機会はあったんですか。
セイジ:九州でやった『volcano06』(2006年1月)っていうイベント。
曽我部:サニーデイではなく、ぼくのソロバンドでギターウルフと3日間一緒に出ましたね。
セイジ:福岡、宮崎、鹿児島だったかな。あれは凄い楽しかったから、またやってくれないかなと思うんだけど。あのとき、曽我部くんと部屋飲みとかしたんだよ。
曽我部:飲みましたね、打ち上げがてら。今は全然飲まなくなりましたけど。
──意外と共演されていたんですね。それまでお互いにどんな印象を抱いていたんですか。
曽我部:ぼくは90年代、ギターウルフのライブをシェルターとかで見ていましたから。
セイジ:オレは曽我部くんと言えば、『笑っていいとも!』の“テレフォンショッキング”に出てるのをたまたま見て。あれは『ライジング〜』で会う前だよね。
曽我部:そうですね。1998年だったかな。[註:曽我部の出演は1998年4月10日]
セイジ:確かエンケン(遠藤賢司)さんを紹介してたよね。
曽我部:ムーンライダーズの鈴木慶一さんがぼくを紹介してくださって、ぼくはエンケンさんを紹介して。その週は井上陽水さんや高田渡さんといったミュージシャンばかりだったんです。前の週は小山田(圭吾)くんとかも出ていたし。
セイジ:その中で曽我部くんはいわゆる芸能人みたいな感じじゃなかったから、けっこう覚えてて。そのときにタモリさんが「そろそろヒット曲が欲しいね」と言ったら「いえ、別にヒット曲なんて必要ないです」って曽我部くんが答えたのを聞いて、かっちょいい兄ちゃんだなと思って(笑)。
曽我部:正確に言うと「食えないでしょ?」ってタモリさんに言われたんですよ。そのときはもうデビューしていたからバイトもそれほどしないで生活できていたんですけど、「ああ、はい」とだけ答えて。
──セイジさんは初回の『ライジング〜』でサニーデイのステージをご覧になったんですか。
セイジ:見なかった。あのときは楽屋で激しく飲んでいたから(笑)。『ライジング〜』はアーティストが集まるバックヤードが凄い楽しいじゃない? 雰囲気もいいし、あべ静江さんに似たお姉さんがずっと働いていて。数年前の『ライジング〜』に出たときもそのあべ静江さんに似たお姉さんが変わらずに働いていたけど(笑)。
曽我部:さっきセイジさんに聞いたら、初回の『ライジング〜』はギターウルフが押して、それ以降のバンド(SUPERCAR、bloodthirsty butchers、サニーデイ・サービス)の出る時間が遅れたそうです(笑)。
セイジ:当時はフェスと言ってもオレたちにとってはライブハウスの延長でしかなかったし、ライブハウスでは自分たちの気が済むまで思いっきりやるのが当たり前だったから。フェスというものが何たるかをまるで分かってなかったね(笑)。
曽我部:ぼくも初回の『ライジング〜』ではギターウルフを見れなかったんです。出番が最後だったので、一度会場に着いて出て、自分たちが出る前に戻ってきた感じだったと思います。サニーデイの前のブッチャーズはちょっと見ましたけど。
セイジ:ああいうフェスではよっぽどの人じゃないと自分たち以外のライブは見ないよね。『フジロック』でイギー・ポップが出るとかなら話は別だけど(笑)。
──曽我部さんは今や日本のポップ・ミュージックにおける最重要人物の一人ですし、ギターウルフのライブを見ていたことを意外に感じる若いリスナーもいるかもしれませんね。
曽我部:当時はガレージが好きでしたからね。ギターウルフとかMAD3とか。
セイジ:もともとパンクロックが好きだった?
曽我部:そうですね。昔はパンク一辺倒でした。最初はマドンナやブルース・スプリングスティーンといったヒットチャートの常連アーティストを入り口として聴いていましたけど。
セイジ:田舎は四国だよね?
曽我部:はい、香川県です。
セイジ:オレも島根の田舎だから、海外のマニアックな音楽なんて知りようがなかった。『ベストヒットUSA』で情報を得るしかなかったね。
曽我部:ぼくも最初の情報源は『ベストヒットUSA』でしたよ。中学生になってパンクの存在を知ってからはパンクしか聴かなくなっちゃって。
セイジ:香川かあ…。高松に堀地(浩)さんって人がいたでしょ?
曽我部:はい。去年、事故でお亡くなりになったんですよね。
セイジ:うん。オレは堀地さんのお葬式にも参加させてもらったんだけど。堀地さんはジョニー・サンダースを四国に呼んだ人でね。凄い人だった。
曽我部:高松でバンドをやっていて、地元のパンク/ハードコア・シーンの重鎮っていうか。ぼくよりちょっと上の宇川(直宏)くんは堀地さんから多大な影響を受けていましたね。
セイジ:堀地さんが個人で呼んだジョニー・サンダースを連れて、当時まだ中学生だった宇川くんが高松の街を案内したっていうんだから凄いよね(笑)。