テキサスに行くならイリノイ・ジャケーの曲をやりたかった
──バードレッグさんがボーカルを取った「EVERYDAY I HAVE THE BLUES」も「I JUST WANT TO MAKE LOVE TO YOU」と同様にベタな選曲ですが、これもエディさんによる采配だったんですか。
甲田:〈イーストサイド・キングス・フェスティバル〉に出演した時、楽器を置いておく場所がなかったんですよ。それで仕方なくサックスをクビからぶさ下げて休憩したんですが、他の会場へ行こうと思って一番盛り上がっていそうなバーの扉を開けた瞬間、汗だくで飛び回りながらブルースを唄っているバードレッグと目が合ったんです。で、向こうが「来いよ!」とケンカを売ってきたんですよ。ケンカと言っても、もちろんブルース・ハープとテナー・サックスのセッション・バトルです。曲が終わらないうちにハグをして出ていったんですけどね。そんなことがあった後、エディが「バードレッグをスタジオに呼ぼう」と提案してきたんです。エディがバードレッグのバンドのベースを弾いているのもあって。それでバードレッグと一緒に「EVERYDAY I HAVE THE BLUES」と「ONE SCOTCH, ONE BOURBON, ONE BEER」の2曲を録ったんですけど、よりメジャーなほうがいいということで前者を選んだんです。バードレッグは70歳を過ぎてますけど相当ヒップな人で、僕が彼のライブに飛び入りしてハグした後、唄いながら客席の白人の女の子にまたがっていましたね(笑)。
──ブラサキのライブの定番曲である「PORK CHOP CHICK」を今回初めてレコーディングしたのは、20周年記念盤を意識してのことですか。
甲田:今まで一度も録ってなかったし、一時期はライブでしかやらない曲という位置付けだったんですけど、そんなこともすっかり忘れていて。今回、選曲するにあたって「PORK CHOP CHICK」を入れたほうがいいんじゃないかという話がブラサキ内で出て、じゃあやろうかと。エディに曲を送ったら「これはいい! ぜひやろう!」という返事もあったので。
──いま冷静に今回の2作品を振り返ってみて、率直にどんなことを感じますか。
甲田:録っていた時の感覚そのままがパッケージされている気がします。ものすごい過密スケジュールではあったんですけど、演奏しているあいだはとても楽しかったし、その場の状況次第でやる曲を急遽変えるのも「どんどん来い!」と思ったし、いま自分の部屋でこの2作品を聴くとあの時の記憶が鮮烈に蘇りますね。
──伸太郎さんのライナーノーツによると、エディさんがなかなかOKを出さなかった曲があったそうですね。
甲田:『IN TEXAS』に入れた「BLUES FROM LOUISIANA」ですね。テキサス・テナーの代表格であるイリノイ・ジャケーの曲で、僕らがどうしても録りたかったんです。以前、ジャケーがニューヨークのセントラル・パークのレストランで1カ月間ライブをやったことがあって、僕はそれを観に行ったことがあるんです。どうしてもジャケーと話がしたくて、終演後に無理やり押しかけたら彼が奥さんやマネージャーと一緒に食事をしていたんです。それで「食事中に申し訳ないけど、俺のテナーを聴いてくれ!」と日本語で話して、その場でひざまずいて演奏したんですよ。彼がライオネル・ハンプトン楽団に在籍していた時、スターダムにのしあがったきっかけになった「FLYING HOME」という曲のソロを吹いて。そしたらジャケーが持っていたナイフとフォークをテーブルにガーン!と叩きつけて、僕の顔にグッと近づいて、目の奥をジッと見られながら吹ききったんですよ。吹き終わるとジャケーはすごく満足そうで、「おまえは何を言ってるのか全然わからないけど、言いたいことはわかったよ」と言ってくれて、食事をしながら1時間くらいずっといろんな話をしてくれたんです。そんな経験もあったので、テキサスに行くなら必ず「BLUES FROM LOUISIANA」をやりたかったんですよね。
──ところがなかなかOKが出なかった。
甲田:すごくタフな曲で、ハードルが高いんですよ。何度やってもOKが出ず、これをまた最初からやるのか…と歯がゆい思いをしました。それを見かねたエディがメンバー全員分のビールとテキーラを持ってきて、「おい、ガソリンを入れろよ!」と言うんです。僕らをハッピーな気持ちにしたい一心だったんですね。ただ僕はアルコールを口にはせず、「次で決めるから向こうで待ってろ!」とエディに言ったんです。それで何とか演奏をキメて、「ヘーイ! ブラッデスト・ガーイズ! 完成したぜ!」とエディがスタジオの中に飛び込んできたんです。その時はもうへたり込むしかなくて、何も出てこなかったですね。
ビッグ・ジェイ・マクニーリーがつないだ縁
──今回の〈テキサス・オースティン〉プロジェクトはジュウェル・ブラウンさんとの共演盤からの流れだったと思うのですが、もっと遡ればブラサキが2012年にビッグ・ジェイ・マクニーリーさんを招聘したことがすべての始まりだったように感じますね。
甲田:それは間違いないですね。『ROLLER COASTER BOOGIE』を日本で録った時はジュウェル・ブラウン側のプロデューサーとしてエディがやって来たし、これまでのいろんな点が一本の線として結ばれてきたんです。その線の始まりはビッグ・ジェイが与えてくれたもので、彼と携わった人はみな幸せになるんですよ。最初にビッグ・ジェイを日本に呼んだ時、別れ際に「おまえらのCDと英語の資料を俺に送れ。俺の署名付きでアメリカじゅうにバラまいてやるから」と言われたんです。彼はおべっかを言わない人なので、僕はそこで初めて認められたと実感したんですね。それ以降、ビッグ・ジェイと関わってきたことがその後の展開につながっているんですよ。今年の6月にインディアナ州の〈エルクハート・ジャズ・フェスティバル〉に招かれてライブをやったんですが、それもその主催者がビッグ・ジェイの大ファンで、日本にビッグ・ジェイを呼んでライブをやったバンドがいると知ってブラサキのホームページに連絡してきたんです。
──まさにビッグ・ジェイがつないだ縁ですね。
甲田:ビッグ・ジェイの風貌には似合わないけど、彼の通った後には綺麗な花が咲き乱れるみたいなイメージがあるんです。実際にそういう人がいるんだなと思ったし、僕には彼が『グリーンマイル』に出てくる不思議な力を持った死刑囚のように思えますね。ブラサキがビッグ・ジェイと共演したことで吹いた追い風はものすごく大きなものです。
──そのビッグ・ジェイも今年(2018年)の9月に亡くなってしまって…。
甲田:すごく残念だし、寂しいですね。できればもう一度、彼の住むロスで会いたかった。来年の1月に渋谷のクアトロでやるビッグ・ジェイのトリビュート・ライブは、僕らなりの恩返しですね。彼はチヤホヤされるのが好きだったし、亡くなった後も一人でも多くの人にその存在を知ってもらいたいだろうなと思ったので、みんなでライブをやってもうひと盛り上がりして、賑やかにビッグ・ジェイを送り出したいんです。
──近年のワールドワイドな活動展開が続いたことで、バンドの意識が変わってきたところはありますか。
甲田:「On Guitar!」とメンバー紹介する時の発音が多少良くなったくらいですかね(笑)。あと、よくライブをやるようになった香港で、道でぶつかりそうになった人に「Sorry!」と言うようになったり(笑)。まぁそれは冗談ですけど、さっきも話した通り、〈テキサス・ブルース・レディース〉と共演してもみんな基本は一緒だなと理解できたのは良かったです。もちろん英語はもっと勉強しなくちゃいけないけど、それ以前のフィーリングの部分をちょっとずつ吸収できている気がしますね。それと、海外のミュージシャンやスタッフと渡り合う上で重要なのは、意地でも対等であるべきということ。テキサスへ行ってよくわかりましたが、日本人を見下す人は一定数いるけど、僕はそういう対応にすべて毅然とした態度を貫きました。「ふざけんな、話があるならおまえのほうから来いよ!」みたいな感じで。そうすると、いざレコーディングやリハーサルで意見を言う時に説得力が増すんです。別に威張るとかそういうことではなく、英語圏で意地でも対等な関係性を貫く気構えは英語を学ぶ以上に重要だと思いますね。
──ビッグ・ジェイからもらったルーツ・ミュージックの種子を育てて花を咲かせていく使命がブラサキにはありますよね。
甲田:いろんなものをビッグ・ジェイからもらったし、自分たちなりに着実に花を咲かせてきた自負はあります。今回の2作品を録り終えたのを区切りにやめたメンバーもいますけど、今のブラサキは間違いなくパワーアップしているし、僕はブラサキをもっとデカいバンドにしていくつもりだし、まだまだこれからですよ。それに、Mr.Daddy-Oレコードの日暮さんと高地さん、A&Rの川戸君、ダイアルトーン・レコードのエディといった協力者の存在も今のブラサキには大きいですね。何をやるにもまわりに協力を仰げないこと、まわりに納得してもらえないことはダメだし、お互いに全力で取り組めることをやるべきなんです。近年のブラサキがやってきたのはそういう手のかかるプロジェクトですが、もっともっと大きくしていく必要があります。いま着手していることを深く広く、丁寧に信頼関係を築きながら国内外問わずバンドを続けたいですね。この20年、ずっと僕らを応援してきてくれた人たちが誇らしくなれるようなバンドになっていきたいです。