マイルス・デイヴィスのことなら、知っている人がたくさんいて、皆様も、いろいろな状況で、マイルスを聴いていた思い出があると思います。
わたしの場合、最初に、このアルバム『Doo-Bop』を聴いたのは、近所の飲み屋でした。松田優作のことを好きな、飲み屋のお兄ちゃんが、このアルバムを掛けて、カウンターの中で、狂ったように踊っていました。
だから曲の合間にならないと、飲み物を注文できませんでした。だいたい四分か五分は、踊りの時間になるのです。しかしながら、お兄ちゃんの踊りは、なんだか、盆踊りみたいに鈍臭いもので、見ていても、面白くありませんでした。
その後、自分でも、このアルバムを、たまに聴いていましたが、踊ることはなかったし、いつも、あのお兄ちゃんの踊りが、思い出されてしまうので、なんだか嫌なのでした。
マイルスのアルバムなら、『On the Corner』とか『Live-Evil』とか『A Tribute to Jack Johnson』とか『Sketches Of Spain』が好きでした。
あるとき、車を運転しながら、NHKのAMラジオを聴いていました。すると交通情報のコーナーになったのです。
NHKラジオの交通情報は、まず曲を紹介して、その曲に乗せて、アナウンサーが情報を喋るのですが、この選曲が、なんというか、常に絶妙なのです。
ちなみに自分は、NHKラジオのヘビーリスナーで、FMの方も好きで、家にいるときは、大概、掛けっぱなしにして過ごしています。
とにかく、そのときは、車を運転していると、アナウンサーが、「それでは、マイルス・デイヴィスの、『High Speed Chase』です」と言って、あの『Doo-Bop』の中から「High Speed Chase」が流れはじめたのです。
この曲は、アクセルをグンと踏み込みたくなるような、ものすごくスピード感のある曲なのです。さらに最後はクラクションの音で終わります。とにかく、これに乗せて、交通情報がはじまったのです。
わたしは、考えてしまいました。そもそも、「High Speed Chase」という曲名なのに、交通情報をやっていいものだろうかと、でも、そんな決まりはどこにもありません。なんだか、選曲者の、底知れぬ恐ろしさを感じました。
しかしながら、交通情報のバック・グラウンド・ミュージックとしては、「High Speed Chase」は、とてもマッチしていました。
以来、わたしにとって、『Doo-Bop』は、飲み屋の兄ちゃんの鈍臭い踊りから、交通情報のアルバムになりました。でも、ドライブするときに、このアルバムを聴いていると、常に交通情報がはじまりそうな気がして、なかなか落ち着かないのでした。
profile
戌井昭人(いぬいあきと)/1971年東京生まれ。作家。パフォーマンス集団「鉄割アルバトロスケット」で脚本担当。2008年『鮒のためいき』で小説家としてデビュー。2009年『まずいスープ』、2011年『ぴんぞろ』、2012年『ひっ』、2013年『すっぽん心中』、2014年『どろにやいと』が芥川賞候補になるがいずれも落選。『すっぽん心中』は川端康成賞になる。他に『俳優・亀岡拓次』などの作品がある。