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【スペシャルコラム】山崎春美のこむらがえる夜 第一夜:松岡正剛

2014.07.04

komuragaeruyoru_gazou.jpgこの度、ロフトプロジェクトにて連続トーク・イベント「山崎春美のこむらがえる夜」がスタートしました。

70年代後半から80年代にかけてミュージシャン・編集者・ライターとして活躍した山崎春美氏が様々なゲストと対談をおこない、当時の音楽・雑誌文化に連なるものごとを紐解いていくイベントです。

最終的には、トーク内容をまとめ、当時のシーンを再考するための一冊として、書籍化することを目標にイベント企画を進行しております。

こちらのコラムでは毎回の対談内容から一部を抜粋してご紹介していきます。

第一夜は2014年4月11日、イシス編集学校校長、編集工学研究所所長の松岡正剛氏をメインゲストに、工作舎編集者の石原剛一郎氏を司会にお迎えして開催されました。

前半部は、かつて松岡氏が編集長をつとめた雑誌「遊」と、そこから派生した無料塾「遊塾」周辺の話題を中心に、後半部では、本イベントのために岡山から駆けつけていただいた能勢伊勢雄氏(岡山ペパーランド主宰)、長年の空白を経て一昨年から音楽活動を再開した佐藤薫氏(EP-4)にもご登壇いただいき、音楽関係のテーマを中心にお話が進み、贅沢なゲストでの幕開けとなりました。

本イベントは、現在第二夜までが終了しており、第三夜(7/21)には山本精一氏、第四夜(8/23)はいとうせいこう氏をゲストに迎えての開催が決定しています。(第三夜は現在予約受付中)

それぞれのイベント詳細は最下部に記載いたします。イベント当日しかご覧になれない資料や、書籍化の際には掲載しきれない貴重なお話もたくさんございますので、是非、会場まで足をお運びください。

それでは、第一夜からは、山崎春美氏と松岡正剛氏が、その出会いについて、また、それぞれの両親について語っている箇所をご紹介いたします。

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遊塾~山崎春美と松岡正剛の出会い

石原:最初はどのようにして出会ったかということですけれども、時代は約35年前、1979年に遡りますね。

松岡:工作舎で「遊塾」という無料塾をやることになったんです。そこに春美がやってきた。なぜ「遊塾」をやる気になったかというと、当時師事していた稲垣足穂から「あんたなあ、一番やりたいことは無償でやらなあかん」と言われたんだよ。その謎が解けなかった。まず一番やりたいことがなにかがよくわからないし、一番やりたいことを無償でやるということは、何かを見返りなしに人に渡さないとだめだということだろうと思ったんだけど、ぼくが人に渡せるものってなんだろうと考え込んでしまった。やっと思い付いたのが、いままで自分が学んだことをみんな明け渡してみようかなということだったんです。そこで、「遊塾」を始めることにして、「遊」の中で塾生を募集した。

石原:ちょっと募集ページをスクリーンに映していただけますか。

松岡:「覚悟する者のみ、その存在を募集」という前代未聞の募集をかけた。せいぜい2~30人くらいが応じてくれるかなと思っていたところに、350人くらい応募があった。石原君もその内の一人だよね。他にも今は京都造形大教授の後藤繁雄とか、後々活躍する若者もいた。その応募者の一人に春美もいたわけです。350人も面倒みられないので、面接試験をやることにしたんですが、そのときにはじめて春美と会った。

山崎:そうですね。僕は76年まで関西の高校にいたんですが、77年の春に、大学はないけれど予備校にひとつ枠があったので、駿大へ行く格好をして東京へ出てきました。東京へきたらいろんなことがありまして…ガセネタというバンドをずっとやっていたんですが、そのバンドが1979年に解散したんですね。どうして解散したのかは、金持ちのバンドの場合はいろいろな理由があると思いますが、当時はバンドで儲けるということは考えられなかった。後にサザンオールスターズとYMOが出てきて、やっとバンドでお金を稼げる人もいるんだと分かってきたくらいですから。それから10年であっという間に状況が変わりましたが。とにかく、ガセネタが1979年の3月末に終わったんです。最後の日にギタリストが———彼がバンドの首謀者だったんですが———「ガセネタは今日で解散です」と言って、それを聞くまで解散することは知らされていなかったけれど、「ああ、そうか」と。そういうことを吉祥寺マイナーというライブハウスの周辺でやっていて、そこから遊塾の開校まではほとんど日がなかったですね。すぐ受験。面接が1979年4月の頭ですよね。

松岡:そうだね。4月開校だからギリギリだった。

石原:「遊」は読んでいた?

山崎:もちろん「遊」は読んでいましたね。

松岡:募集は「遊」の何号に掲載したんだろう? 二期がはじまってしばらくしてからだったか。

石原:1979年の1006号「観音力+少年」の特集ですね。

山崎:間章(あいだ・あきら)という知る人ぞ知る音楽評論家、あるいは呼び屋がいました。デレク・ベイリーとかミルフォード・グレイブスを呼んだ人ですね。その男が、どこかジャズ雑誌だと思うんですが、セリーヌのレコードを作ったんで売ります、ただし面接あり、というような告知を出した。面接して合格した人にしかレコードを売らないんですね。僕はそれで渋谷の間さんのところに面接に行きました。渋谷にありましたからね、間さんの家が。

松岡:半夏舎(はんげしゃ)っていうところだった。

山崎:そうです。半分の夏ですね。

松岡:半夏舎。いい名前だったね。

山崎:そのあと間さんとはずっと付き合いがあったんですが、1978年の9月9日に阿部薫が死んで、12月12日に間章が死んだんです。だから3月3日に死ぬのは誰だ、みたいな話もあった。まあ誰が死んだかはわからないですが。その翌年の79年春が遊塾の面接だったので、もう長髪で目を隠すという、典型的な当時の格好で行きました。

松岡:サングラスでね。

山崎:サングラスはかけてないです(笑)。眼鏡ですよ。

石原:その時の履歴書が、工作舎に残ってますね。

松岡:ちょっと読んであげてよ。

石原:なぜ遊塾に応募したかという動機が書かれているんですけども、この時点で既に山崎春美節が全開ですね。ちょっと読んでみますね。

「ヒトがAO式円筒だとすれば、食べたり歩いたり喋ったりする行為はそれぞれに自足して、そのあいだを物質が行きかっている。ひとつひとつ憶えていられないほどの情報の海の中を泳ぎ進みながら、時たま点滅する思いつきが向かってくるわけだ。」

松岡:もうこれで合格だよ(笑)。

石原:「物質の将来はおそらく電気だろう。人間の将来はおそらく星体だ。ところでりんかくのぼやけた思考の自由は、行為としての遊びを産み出す。帰れなくなった子供のように冗談をつきつめて行くと、きっと恐ろしいほどの夜の恐怖に包まれる。夜になれれば今度は新手の別種の恐怖が訪れる。冗談と恐怖はまるで一枚の銀貨の表裏だ。恐ろしいほどに加速度のついた直観にともなって笑い声もいっそう大きくなる。最後には凍りついたように笑顔が止むか、転げ回る大爆笑か、その切羽詰まった競りあいを通してしか、生の来し方(果てしないくらいの行方)は掴めないんだ。今、そんな作業を思い通り押し進められる空間(場所?)は工作舎だけだし、向かってくる者が感じられる雑誌は遊だけだ。的確で超大なエネルギーの消費。明確な意図のもとに行われるアナーキーは、純粋なテロである筈だ。それこそ正に工作舎。」

という動機です。

松岡:すごいな。春美は今この文章を越えてるのかなあ(笑)。

山崎:今の文章はもう少しわかりやすいですよ。

松岡:350人がみんなこういうことを書いてきたんですね。要するにテストでもなんでもない。ぼくの方は無料でなにかをやるから、みなさんもなにかを示してくださいということだけだった。それでも春美のこの文章はダントツだった。

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少年時代~両親について

松岡:春美の文章は、「遊塾」に応募してきたときにはじめて読んだんですよ。その時は父親とか母親の話は書かれてなかったんだけど、父母へのなにかは感じたね。それがなんだったのか、今となってはわからないけれど。

山崎:もう母親が死んで15年くらいになりますが、僕は今になってやっとわかりますね。母親に特に顕著なんですが、なんかこう、神懸かり的なところがある。印象的だったのは小学校一年生の時の出来事です。三学期に通知簿をもらったんですが、その成績表を母親の前に出したら、いきなり包丁を畳に突き刺して「これから一緒に死ぬか、勉強するか」みたいなことを言われました。

松岡:パンクなお母さんだね(笑)。ぼくの親父が包丁を持ったのは一回きりなんだけれど、ぼくもご多分に漏れず野球少年でね。やっと親父にグローブを買ってもらって、毎日放課後に遊んで帰るか、家に帰ってもすぐ外に飛び出して遊んでいたんですが、家に帰ってきたときに、何度かグローブをそのへんに放り出してた。そうしたらある時親父に「正剛、グローブ持ってこい」と言われて、おずおずとグローブを持っていった。「お前、グローブを放り出してるな」と言うから、「うん」と応えたら、次に「包丁持ってこい」。その時はもう「ああ、殺される」と思った(笑)。

山崎:包丁持ってこいって…松岡さんが持っていくんですか?

松岡:なんとも横着な言い方だよね。それで、包丁を持っていったら、ぼくの目の前でグローブを切り裂いていく。そのあと、「わかったか?」なんて言われて、そんなことされたらわかったもクソもないよね(笑)。ワンワン泣いていたら、今度は「グローブ欲しいか」と聞くんです。もちろん「欲しい」と答えた。すると親父は「じゃあ今からグローブつくろう」と言うんですよ。どうやってつくるのかと思っていたら、「繕う」の意味なんだね。切り裂いたグローブを自転車屋に持っていって、そこにあるミシンで縫ってもらった。ぼくの親父もそういう人だったから、どこか春美の母親と近いものがあるね。

山崎:ありますね。それはおいくつくらいの時ですか?

松岡:それは小学校四年くらい。

山崎:僕の小学校は公立で実家の近くなんですけど、中学高校は———柄谷行人とか鈴木創士という文筆家の後輩になるんですが———実家から遠くになるので、いろいろ覚えますよね。音楽が好きになって…当時の流行はフォークで、ロックもちょっとあったくらいの頃です。親には音楽のことなんてまったく言わないんですが、ある日帰ったら母親に車に乗せられて、豊中駅前のレコード屋に連れて行かれた。小さい店だったから、入ってみると店主以外誰もいなかったです。母親は怒った感じで「好きなもの全部とれ」と言うから、しかたなく欲しいものを15枚くらいとって帰るんですけど、雰囲気が悪いから家に帰っても聴かないでいたんですよ。そうしたら次の日曜日に、親父が急に立ち上がって庭にある石臼の上に行ったんです。なにかと思ったら、「みとけ」って、買ってきたレコードを一枚ずつ割っていくんですよ。

松岡:似てるなあ。まずいね(笑)。それ一回きりだよね、きっと。

山崎:もちろん一回きりです。そんなに何回もやられたらこっちも慣れてきちゃう。

松岡:そういうことを一回きりやるんだよ。あの世代はね。

山崎:そうですね。昭和一桁で苦労したことをいかにして伝えるか、そのあらわれが程度問題を抜いてしまう。

松岡:ここぞという時にやる。ぼくはもう一回あって、家で飼っていたウグイスに餌をやる担当だったんだけど、何回も餌をやり忘れていた。その時も「正剛、ウグイス持ってこい」って言われて…。

山崎:生きているウグイスをですか(笑)?

松岡:鳥籠ごとね。こわごわ持って行ったら、親父はその場でビャッと鳥籠を開けて、ウグイスがバーッと飛んでいってしまった。「ああっ、お父さん、ウグイスが」と慌ててたら、「かまへん」と言って鳥籠をバシャンとつぶされた。そのときは包丁は使わなかったけど(笑)、そんなこともあった。

山崎:お父さんは関西弁だったんですか?

松岡:元々は長浜。だから近江商人だね。

山崎:うちもそうですね。滋賀県の、近江商人です。

(2014年4月11日、ロフトプラスワン「山崎春美のこむらがえる夜 第一夜:松岡正剛」採録より)

Live Info.

山崎春美のこむらがえる夜 第三夜:山本精一
2014年7月21日(月・祝) open18:00 / start19:00
出演:山崎春美、山本精一
会場;大阪・宗右衛門町ロフトプラスワンウエスト
料金:前売 2,100円 / 当日 2,600円
予約:e+、ローソンチケットにて予約受付中
e+のURLはこちら
ローソンチケット(Lコード53714)

山崎春美のこむらがえる夜 第四夜:いとうせいこう
2014年8月23日(土) open18:00 / start19:00
出演:山崎春美、いとうせいこう
会場:新宿ネイキッドロフト
料金:前売 2,100円 / 当日 2,600円
予約:7月11日(金)よりローソンチケットにて受付開始

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