“声出し解禁ライブ”を経て感じたこと
──Jさんが4月1日、2日に新宿BLAZEで行なったライブでは久々に声出しが解禁されましたが、手応えはいかがでしたか。
J:約3年3カ月ぶりの声出し解禁で、“やっと戻ってきたな”という感覚が凄くありました。ただそれは単に3年3カ月前に戻ったわけじゃなくて、むしろ僕らは先に進んだように感じたんです。コロナの渦中にいたときはいろんなことが規制されて、特にエンターテイメントの世界ではその在り方そのものが激変してしまった。その中で自分たちにとって大切なものを守るためにあらゆる我慢に耐えてここまで来ました。じゃあこの3年3カ月はただ耐えるだけの時間だったのか? と言えば、実はいろんなものを得ることもできた期間だったと思うんです。僕らにとって本当に大切なものは何なんだろう? これだけは絶対に譲れないものとは何なのか? 制限がある中でもこういう発想でライブを進めるのは楽しいねとか、そういう気づきがいろいろあって、決してネガティブなことばかりではなかった。だから今の自分の気持ちとしては、その期間のこれまでの経験や思いのすべてをポジティブに変えてやろうと。その意味でも先に進めたと思うし、これまで我慢してきたぶんだけみんなで楽しめる時間をこれから刻んでいきたいんです。
アツシ:Jの言う通りだね。今回のコロナ禍でもいろんな経験をさせてもらったし、決して無駄にはなってないと思う。コロナはまだ完全に終わったわけじゃないけど、これもまたいろんなことが巻き起こる人生の一部というか、見たことのない景色を見た経験が今後に活きると思う。僕は何事もポジティブに捉えるタイプだからね。
──あっちゃんはコロナ禍の初期に二足の草鞋の片方がぬげてしまった格好でしたが、実際のところどうでしたか。
アツシ:リハーサルもできなくなったのが1カ月くらいあったのかな。そのときにやれたのは家のお菓子屋の仕事だけだったんだけど、こんなに時間があるんだなあと思ったね。でも正直な話、少し休めて心の余裕ができたのは有り難かった。それまでずっとバンドとお菓子屋の仕事でフル稼働していて、動いてないと死んじゃうタイプだと思ってたんだけど(笑)、ちょっと立ち止まれたのは良かったと思いますね。
──ライブをやれない代わりに作詞の時間が増えたとか、そういったことは?
アツシ:ちょうどデモを1曲作ってあって、メンバーがそれぞれ自撮りした映像をナボちゃんが編集してMVを作ったのは面白かったね。50を過ぎたおじさんたちがリモートでMVを作るなんて凄いなと自画自賛(笑)。Jはどうしてたの?
J:とにかく得体の知れない事態だったし、いつまで続くのかわからなかったから凄く戸惑いましたけど、ここで立ち止まるわけにもいかない。それでたとえばオンラインでのライブがアイデアとして出てきた。通常のライブではないにせよ、今はこうしてみんなと繋がることができるんだという発見もありましたね。不自由なときは不自由なりに、そのときにしかできないことをいろいろと模索しながら取り組んでいました。
──無観客のオンラインライブはやはり雲を掴むような感覚でしたか。
アツシ:無観客の配信ライブを初めてやったのは八王子のマッチボックスだったんだけど、やったことがないからみんなのコメントを見ながらちょっとずつやろうかなんて話していたんです。それでいざやってみたら、1曲目をやっただけなのに僕が凄い疲れちゃって。お客さんがいない上にカメラを見ながら唄うのに苦労したのか、感覚が全然掴めなくて。それでメンバーに「ちょっと待ってくれ」って言ったんだけど、僕以外の3人もやりづらかったみたいでね。いつもは頭に4曲くらいガーッとやるバンドなんだけど、1曲だけで全員がバテちゃった(笑)。そのときにRYOくんが「今までどれだけお客さんに助けられてたかってことですよね」って言ったんだけど、ホントにその通りだなと思って。お客さんとニューロティカがぶつかり合って初めてニューロティカのライブになるってことをそれで実感しましたね。
J:よくわかります。僕もカメラの向こうで画面越しにみんなと繋がっているのをイメージしながら無観客ライブをやって、そのときはスタッフしかいないにせよ、それなりに熱くはなれたんですけど、やっぱり独特の空気感だったんだなと今にして思います。当時はとにかくがむしゃらだったのでわからなかったけど、このあいだの声出し解禁ライブを経てみると、オンラインでのライブは本来のライブとは全くもって別物だったんだなと。とはいえ別物には別物の良さもあって、その良さを今はより理解できた自分がいます。これからも機会があれば配信には取り組んでいきたいし、場所にも時間にもとらわれず全世界へ発信していけるようなオンラインでのライブができると思ったら、自由な感覚を得ることができたんです。その意味でも3年3カ月という期間は決して無駄ではなかったし、学べることが多かったと思います。
亜無亜危異のトークライブになぜか巻き込まれたエピソード
──お二人に多大な影響を与えたであろう、仲野茂さんについて聞かせてください。
J:僕らはデビューがビクターで、村木(敬史)さんというディレクターの方がずっと亜無亜危異を担当されていたんです。そんな繋がりもあって、僕が亜無亜危異が好きだということで、いろいろな流れで紹介していただきました。
──先述した『KEEP the LOFT』然り、Jさんは茂さんとGaZaや高樹町ミサイルズなどで一緒にバンドをやったり、一時は共演する機会も多かったですよね。
J:有り難いことにいろいろとご一緒させていただきました。亜無亜危異のメンバーが揃うときにはいつもあっちゃんとG.D.FLICKERSのJOEさんが脇を固めていらして、世代として長い時間を一緒に過ごしてきた、皆さんにしかわかり得ない強い繋がりをカッコよく感じたりもします。あっちゃんは亜無亜危異がロフトプラスワンでやったトークライブを覚えていますか?
アツシ:あれかな、BOXが出たときの(『内祝』~26周年 アナーキー・コンプリートBOX発売記念「亜無亜危異ナイト!!」、2006年2月21日)。何かやらかした?(笑)
J:「トークライブをやるから見においでよ」と誘っていただいて、楽屋でみなさんと楽しく話していたんです。そしたら茂さんが「J、お前も出ろよ」といきなり言われて(笑)。「いやいや、今日のお客さんは亜無亜危異を見に来たんですから、僕が出ちゃまずいですよ」って言ったら「いいんだよ、そんなの! 出ろよ!」って押し通されまして(笑)。それで結局、ステージに出るときになぜか茂さんと伸一さんの間に僕が挟まれる形で出て、あっちゃんが後ろにいて。トークライブが始まってからも僕はずっと茂さんと伸一さんに挟まれて居場所がなくて(笑)。あれは強烈でした。僕がこんな所にいていいのか?! と思ったし、お客さんは「なんだこいつは?!」って感じだったでしょうね(笑)。
アツシ:そんなことないよ(笑)。
J:あっちゃんと茂さんの出会いはいつ頃なんですか?
アツシ:もちろんライブには通ってましたけど、仲良くさせてもらったのはG.D.FLICKERSのJOE兄ィの紹介がきっかけですね。あと、亜無亜危異が復活したとき(1994年)、ロフトとオンエアイーストでやったときのダイブのストッパーが当時のニューロティカのメンバーだった修豚とSHON、それにG.D.FLICKERSのメンバーでした。私生活でもJOE兄ィに「茂さんと飲むぞ!」って誘われたり、有り難いことにずっと仲良くさせてもらってます。
──ちなみに伸一さんが監督を務めた『GOLDFISH』はご覧になりましたか。
J:まだ行けてないんですが、必ず観るつもりです。
アツシ:僕はなぜか出演もしてるんですけど、このあいだ鑑賞しまして……もう、胸がいっぱいでした。
J:あっちゃんはずっとそばでリアルで見てきたからこそ、余計に響くところがあるんでしょうね。
アツシ:何と言うか、「亜無亜危異、オレたちこそ真実」(「叫んでやるぜ」)という言葉がぴったりの映画です。ここで多くは語りませんけど、ぜひみんなに観てほしいですね。