即興性こそロックの醍醐味
──当時、松本康さんも主要メンバーの一人だったロック喫茶“ぱわあはうす”で、『ブルースにとりつかれて』というブルースのレコード・パーティーもサンハウスのメンバーが中心となって月一回のペースで開催されていましたよね。毎回パンフレットが無料配布されて、そこに記載されたプレイリストを見ながらブルースを楽しむという企画で、かなり進歩的な試みが博多という局地的なエリアで催されていたのが興味深くて。
鮎川:東京で出版されてた『THE BLUES(ザ・ブルース)』という月刊誌や中村とうようさんの『ニューミュージック・マガジン』(現在の『ミュージック・マガジン』)で情報を集めつつ、サミュエル・チャーターズの『ブルースの本』を原本で読んでみたりもしたね。イエナ書店や丸善といった洋書の専門店もあったから。まるで乾っからのスポンジみたいに、水をじゅーっち染み込ませるまで一気にブルースの情報を寄せ集めたり、ブルースの良さを体感していた。そしたら今度はブルースをみんなで一緒に聴きたくなったんよ。そのきっかけは奈良で、奈良がブルースのレコードをいっぱい持っとるちゅうけ、“ぱわあはうす”という康ちゃんも一緒に集ってたロック喫茶で『ブルースにとりつかれて』を始めた。そこでスキップ・ジェイムスの「I'm So Glad」やらサン・ハウスの「Preachin' The Blues」やら、それまでまともに聴けるチャンスのなかったレコードをいっぱい聴けることになってね。ちょうどヤズーやオリジン・ジャズ・ライブラリーちうレーベルが戦前のブルースをリイシューする動きが世界的に起こってて、そういう復刻レコードを奈良が凄い持っとんよ。篠山さんとかに「このやろう、こんなん凄いレコード持っとる!」と小突かれながら渋々出して(笑)。
奈良:心斎橋に阪根楽器という店があって、そこの吉村さんというスタッフと仲良くなって、「おいでよ」って言うから夜汽車に乗ってレコードを買いに行ったんですよ。
鮎川:奈良が集めてたヤズー盤やらは最後、ジューク・レコードに預けてね。
奈良:そうそう、東京へ行くときに。僕も『ブルースにとりつかれて』には凄い刺激を受けたし、ガリ版刷りのパンフレットも勉強になったし。
──当時の日本で最もブルースを熟知していたのは間違いなくサンハウスのメンバーと周囲の仲間たちだったんでしょうね。
鮎川:ブルースを貪欲に求めよったし、求めれば奈良みたいなコレクターも集まったから。フライライトとかイギリスの海賊盤まで持っとったし、奈良のコレクションにはノックアウトされた。それがきっかけでブルースを分け合いたいという共有感覚が起こった。それで、康ちゃんはジューク・レコードを始める前に塾の経営をしよったから、家にあったガリ版刷りでパンフレットを作ろうよって話になって。最初から20ページ弱の冊子の付いたレコード・コンサートやった。よその評論家が選んだ名盤なんかじゃない、僕らバンドマンが針乗せていいっち思ったり、聴いて鳥肌が立ったレコードを選んでかけよってさ。そういうのを1972年12月から1974年7月までの2年弱、全部で19回やってね。ストーンズの「19回目の神経衰弱」に引っかけて、ひとまず19回目で休止しようって。ちょうどサンハウスが凄い忙しくなってきて、東京でレコーディングを始めたりしよった頃で。あげなことをやれたのも“ぱわあはうす”にいた仲間たち、サンハウスを好いてくれた人たちのおかげやね。
──そういう『ブルースにとりつかれて』の成り立ちもそうだし、サンハウスのそもそもの始まりも根は一緒ですよね。心からブルースを愛し、純粋に音楽を愛する一心ですべてが始まっているという。その一途なピュアさが『ASAP』と題された“鮎川誠 Play The SONHOUSE”のCDにも封じ込められていると思います。
鮎川:自分たちの取り柄はもうそれしかなかろうと思うし、もうちょっと上手く弾きたいと思うても歳とってきたら「まあいいか」ちう感じになる。ただ、今回の音源を自分で編集して、最初は一人で聴きよったんよ。そしたら鬼平、奈良、LUCYにも聴かせたくなって、結局は唄った全曲を記録として入れることにしてね。
──それだけの手応えを鮎川さんが感じたということですね。サンハウスのデビューから47年目に往時のメンバー3人が揃って出した音を残しておきたいと。
鮎川:うん。DISC-2のほうはほとんど博多でのリハーサルで、何の打ち合わせもなく「次はこれ」とどんどん進めていった。鬼平がまだ準備しよるときに勝手に唄ったりして(笑)。それでもいい所からバーン!ち音を上げてきよるし、そういうドキュメンタリー的要素も残しておきたかった。
奈良:そんなドキュメンタリーみたいな音でも充分格好いいのがサンハウスなんですよ。だから何年経ってもやめられないんです。
──そうした記録的要素も含めていち早くリスナーのもとへ届けたいという思いから『ASAP』=“As Soon As Possible”(できるだけ早く)というタイトルを命名したんですよね?
鮎川:そうなんよ。ミック・ジャガーが6月にコロナ陽性になって、アムステルダムのライブを延期したわけ。そのお詫びのメッセージをツイッターで出したとき、その文面の中に“ASAP”ちう言葉があってね。インターネットの世界じゃ死語みたいなもので、その昔、ヤッピーが「すぐ返事をください」という意味で“ASAP”っち言葉を使っとったけど、それをミック・ジャガーが復活させたのが嬉しくてさ。“ASAP”、“できるだけ早く”戻ってきたいと力強いメッセージをミックが贈ったことに感激したし、その“ASAP”という言葉を自分もどこかに留めておきたかったんよ。
──ロックロールならではの即興性と言うか、録って出しで未編集のまま作品を世に放つ爽快さもありますよね。
鮎川:何とも言えない快感があった。CDに先月の音が入っとるなんて夢みたいだし、今までじゃ考えられんから。ビートルズやらストーンズの時代みたいな、吹き込んだらすぐシングル盤が出よった60年代のレスポンス感に近いね。
──この“鮎川誠 Play The SONHOUSE”プロジェクトは期限を設けることなく今後も続けていく予定なんですか。
鮎川:老後のプロジェクトとしてやり続けていこうと思うとる(笑)。鬼平もやるたびに楽しそうにしてくれとるし、機会があればいつでも集まろうねと言うとるし。『STREET NOISE』に入っとる曲をやるとやり足らんやったと思うしね。あれはメンバーがいなくなって出したアルバムやったし。でも今でも僕らが揃って合わせれば、そのものの音が出るね。びっくりする。
奈良:それが不思議なんですよね。サンハウスだからって特に構えて演奏するわけでもないんですけど、身体の中から自然に出てくるものなんでしょうね。
LUCY:奈良さんはどんなときでも音楽を楽しむ天才なんですよ。
鮎川:それやし、稀有な見本かもしらんと思う。音が身体に染みついたという意味でね。今やミュージシャンが還暦を迎えたり、歳とっても好きなことをやるのが最高さ! っち時代やけど、プレイを忘れるっちゅう人はいっぱいいると思う。昔はよくやったけど、ちょっとどうやったかね? とか、僕らにはそういうのが一切ない。ロケッツもサンハウスも音が全部身体の中にあるけ、演奏が始まってからでも身体が覚えとるからすぐ間に合う。みんなの行きよる方向が見えとるから。そういう即興性は大事よ。ロックの醍醐味だからね。「ちょっと待って」っち言われんのがステージやけん。
奈良:始まったら「ちょっと待って」とは言えないですからね。
鮎川:そういうんは60年代にダンスホールでいっぱい経験したし、サンハウスになってからも丸1年はダンスホールでやりよって。奈良もそんときは違うバンドやったけど、同じ経験をしとるし。