サンハウスのデビューから47年、シーナの魔法がまた始まった
──それで6月22日に博多ベーシックで急遽ライブが行なわれ、その翌日に博多ハートストリングス スタジオでスタジオ・セッションが行なわれたわけですね。今回は鬼平さんが奈良さんを誘ったことがポイントとして大きい気がします。
奈良:坂ちゃんから直接電話が来ましたからね。
鮎川:奈良やったらまさに鬼に金棒やしね。同じ顔ぶれが博多に集まったとしても、サンハウスの名前がなければ趣きはだいぶ変わったと思う。ジョン・リー・フッカーの「Boom Boom」やエディ・フロイドの「Knock On Wood」をやって、ルーファス・トーマスの「Walking The Dog」が来て…とか、だいたいはみんなのルーツにあった曲のオール・カバーになったりするけど、サンハウスという自分らの手にした曲をやるとなると気合いの入り方が全然違う。しかも今年はサンハウスが1975年に『有頂天』でデビューしてからちょうど“47”年やんか、シーナ(“47”)の魔法がまた始まったばい、ちなって。
──“47”をひっくり返すと“74”、鮎川さんは今年で74歳ですし。
鮎川:そういうメモリアル・イヤーでもあるし、「LUCYも唄わん?」ちなって「もしも」とか唄ったり、こないだはついに「キングスネークブルース」も別府で唄ったね。
奈良:あと、「地獄へドライブ」も。
──おお、自主制作盤のシングル2曲を。サンハウスの活動当時を知らないLUCYさんも、決して色褪せない楽曲の輝きや鮮度の高さを実感したのでは?
LUCY:いま聴いても凄く格好いいですね。海外の音楽からの影響を受けているはずなのに和製なりの良さもあって、日本初のミクスチャーだと思いながら聴いています。サンハウスに影響を受けた騒音寺とかも和製の良さがあるし、当時の柴山さんのルックスはヴィジュアル系の元祖と言っても過言じゃないし、ヴィジュアル系のバンドに与えた影響も凄くありますよね。日本のロックの黎明期にあんなに前衛的な音楽とルックスを体現していたのは純粋に凄いと思います。
──柴山さんの歌詞も秀逸ですよね。ダブルミーニングを多用した日本語独特の歌詞で、ロックの原産である英語に逃げない気概やセンスを感じますし。
鮎川:詞が生きてるし、普遍的やしね。“Play The SONHOUSE”で唄ってみてもそれは感じる。あんな凄い歌詞をよう作ったなと思うし。昔は「ヘンな詞だな」とか思いながら作りよったけど(笑)、一生懸命作って良かったと思う。
奈良:僕も当時はヘンな詞やなと思いよった。「キングスネークブルース」自体がすでにそうだったし、坂ちゃんと二人で「どう思う、これ?」とずっと話してた(笑)。
──そんな奇妙だけど代替不可の音楽をテイチクレコード/ブラックレーベルというメジャー・カンパニーからリリースできたのが痛快でしたね。
LUCY:そうですよね。「ロックンロールの真っ最中」の歌詞とか、今なら絶対放送禁止だと思うし(笑)。
鮎川:サンハウスは柴山さんの歌ももちろん凄いけど、演奏するのがとにかく楽しかったんよ。自分勝手な長い前奏があって、終わりもギターを弾きまくるとかね。
LUCY:そうそう。ギターを弾くパートが曲の中で3分の2くらいあったりして(笑)。
鮎川:あの頃に抱えてた思いを凄い自由に曲にできてたし、人の言うことを聞かんで良かったと思うね。東京にレコーディングしに行ったときも、僕らはスタジオで煙幕を張っとったんよ。「売れるためには3分以内にしろ」だとか「イントロは8小節くらいですぐ歌に行け」とか、外野からがちゃがちゃと言う人がいっぱいおったから。でも絶対に聞く耳は持たんからっち念を押して、自分たちの思った通りに録らしてほしいっち言うて。“Play The SONHOUSE”をやりながらそんなことを思い出したりもして。とにかく凄い自由にやらせてもらってた。作為的にアレンジしたりじゃなく、本能的に憧れの音楽に近づこうとしてたね。ツェッペリンならどう弾くやろ? ブライアン・ジョーンズとキース・リチャーズならどういうギターの組み合わせで来るやろ? そんなふうに考えながら曲作りに打ち込んでた。
──奈良さんもサンハウスのレパートリーは血肉化されているというか、ブランクがあってもすんなりと弾けるものですか。
奈良:もう練習しすぎてますからね。当時から坂ちゃんと二人、居残りでだいぶ練習してましたから。
LUCY:まさにサンハウス学校(笑)。
──ブルースの求道者的イメージがサンハウスにはありますよね。奈良さんが大阪の阪根楽器からブルースのマニアックなレコードを大量に取り寄せるなどメンバーが熱心なリスナーでもあり、ブルースを体現すべく日夜練習に打ち込んでみたり。
奈良:凄く真面目だったとは思いますね。
鮎川:もともとサンハウスを作ろうちゅうたときに、クリームやツェッペリンも含めたホワイト・ブルース・バンドに強い刺激を受けてね。それから本物のブルースマンのレコードが日本でも手に入るようになって、やっとB.B.キングが聴けるようになって、マディ・ウォーターズやハウリン・ウルフはまだかよ?! ちう感じでね。そんなふうにずっと待ち望んだレコードをやっと手にして、「こういう音楽をやりたいね」ち言うた仲間やったんよ。素材を聴いて、自分らでアレンジをしながらブルースを楽しみたい。もっとブルースを深く極めてみたい。そういう仲間が集まったのがサンハウスだったし、最初の2年くらいはオール・ブルースのレパートリーやった。J.B.ルノアをやったり、その次はジョン・メイオールやフリートウッド・マックとかを含めたホワイト・ブルースをやったり、ステージでは「エルモア・ジェームスの『The Sun Is Shining』をやります」とか柴山さんがぶっきらぼうに言うてみたり。サニー・ボーイ・ウィリアムソンの「Bring It On Home」を唄いながら急いでハーモニカを入れたりね(笑)。そうやってブルースをやる喜びが2年くらい続いたバンドで、同時代のはっぴいえんどや高田渡、キャロルやサディスティック・ミカ・バンドみたいなバンドにも刺激を受けつつ、オリジナルを作ってみようかと考えていた頃、柴山さんが「マコちゃん、これ」と恥ずかしそうに紙切れを渡してきた。なんこれ? と思って見たら、そこに「俺の身体は黒くて長い…」という歌詞が書いてあった。
──ああ、オリジナルの一発目が「キングスネークブルース」だったんですか?
鮎川:うん。最初は「へびの歌」というタイトルやったけど。そのあと、「街」とかいっぱい未発表曲のある時代がちょっとあって。
奈良:「じゃじゃ馬むすめ」とかね。
鮎川:それを経て1974年に『ワンステップ・フェスティバル』や日比谷の野音に出たり。それまではずっと博多でやってたね。