1978年10月25日にシングル『涙のハイウェイ/恋はノーノーノー』でメジャーデビューし、今日に至るまでロックの最前線をノンストップで疾駆し続けるシーナ&ロケッツが、結成日である11月23日にバンドの45周年突入とシーナのバースディを祝うアニバーサリーライブを今年も新宿ロフトで開催する。「ロックができるところならどこにでも行く」という信条通り、『HIGHWAY 47 REVISITED! TOUR』と題した5月以降のツアーは年内までに30本近いステージを敢行するなど日本屈指のライブバンドとして面目躍如を果たしている。その一方で"鮎川誠 Play The SONHOUSE"というプロジェクトを始動、鮎川誠、奈良敏博、坂田"鬼平"紳一というオリジナル・メンバーにギタリストの松永浩を加えた布陣で日本のロック黎明期に数々の伝説を残したサンハウスの楽曲を現代に蘇生させている。
シーナ&ロケッツ45周年と新宿ロフト46周年を共に祝う特別な一夜を目前に控え、鮎川、奈良、鮎川の三女であるLUCYに話を聞いたこのインタビューでは、バンドの近況やサンハウス時代の貴重なエピソードのみならず、さる9月28日に逝去したジューク・レコード創立者の松本康のこと、今なおバンドを陽のあたる場所へと導く精神的支柱であるシーナのことも語られている。泉下の客となってもロックやブルースで結ばれた縁と絆は不変であり、まだ見ぬ友人との新たな出会いを求めるかのように彼らは今日もステージに立ち、しゃにむにロックを掻き鳴らす。サンハウス〜シーナ&ロケッツと続くクロニクルとは、音楽をこよなく愛し、それを介して出会った仲間や家族が育む絆の物語であり、その大いなる群像劇はまだまだ続く。(interview:椎名宗之)
松本康とジューク・レコードは博多ロック・シーンの財産
──鮎川さんのツイートでジューク・レコード創立者の松本康さんが亡くなったのを知ったのですが、松本さんは以前、ロフトプラスワンで行なわれたサンハウスのBOXセット『THE CLASSICS』発売記念トークライブ『SONHOUSE PREMIUM TALK SHOW』(2010年5月7日)にもゲスト出演して貴重なエピソードを披露していただいたこともあり、とても残念です。
LUCY:この3年くらい、ずっと闘病されていたんです。
鮎川:康ちゃんはああ見えて強いけん、必ず復活すると思いよったけれど…ショックやったね。コロナ禍になる前、2019年までは『ROCKJUKE』(2015年から始まったジューク音楽塾『鮎川誠ロック塾』のこと)とか一緒にいろいろやれてて、その第15回が最後でね(2019年4月21日)。コロナになって面会するのも厳しくて、こっちも「どうね?」とか連絡も出せんまんまやったけど、LINEとかSNSでジュークのスタッフに手厚く連絡は取り合いしよって。身体のリハビリを始めないかんいうことにはなったけど、頭は変わらず明晰と言いよったね。いろんな企画のアイディアやディレクションを常に考えて、そういうのを組み立てるのが康ちゃんは凄い得意やった。
──松本さんは1970年代からサンハウスの活動をバックアップし、80年代にはアクシデンツの『ナイト・タイム』やアンジーの『嘆きのばんび』をリリースするなどレーベル活動も旺盛で、九州を基盤とするバンドを常に陰で支え続けた松本さんが亡くなってしまったことは九州のロック・シーンにとって大きな損失ですよね。
鮎川:ほんとそうよね。まさに大きな柱を失ったと言うほかない。博多のロック・シーンの財産やから。
──そんな松本さんも縁深いサンハウスの楽曲を令和の時代に蘇生させる“鮎川誠 Play The SONHOUSE”というプロジェクトが今年始動、7月にはアルバムも発売されましたが、どんな経緯で始まったんですか。
LUCY:ギタリストの松永浩さんが還暦を迎えたことがきっかけでした。
鮎川:そのお祝いを鬼平(坂田紳一)がレッドシューズでぜひやりたいけ、一緒に演奏してくれん? ちう誘いがあってね。
LUCY:松永浩さんにかこつけて集まった感じです(笑)。
鮎川:鬼平が奈良にも連絡して、さて何やろうかっちなったとき、迷わずサンハウスしかなかろうと。サンハウスにはいい歌がいっぱいあるし、未発表曲もあるし、サンハウスの曲を唄えたら楽しかろうねとはかねがね思いよったけど、わざわざメンバーに連絡してまでちうのはあまり考えてなかった。ただ、九州にサンハウスをカバーする若いバンドがいて、それに僕が加わったりしたこともあって、それがちゃんとできとるんよ。凄い若々しいサンハウス・サウンドでね。そんなこともあったし、鬼平、奈良、僕がいて、そこに松永も一緒に入れて東京のスタジオで集まったら、それはもう当たり前のようにサンハウスの曲をやることになった。思いつくままにジャーンと鳴らせば、「爆弾」、「おいら今まで」、「風よ吹け」、「悲しき恋の赤信号」…と続いてね。奈良も鬼平もサンハウスの曲をしばらくやってなかったけど自然にやれたし、何より凄い楽しくてね。
──3度目となる再結成、2010年5月のデビュー35周年記念ツアー以来でしたか?
鮎川:2015年にシーナの追悼ライブでやって以来かな。下北沢でもやったし、福岡でもやった。それから柴山(俊之)さんの『ROCK'N ROLL MUSE』(2016年6月発表)。あのツアーでもサンハウスの曲をやったけど、ドラムが鬼平ではなく川嶋(一秀)やった。そやけん5、6年ぶり、柴山さんも篠山(哲雄)さんもいない中ではあったけれど、今年の4月にレッドシューズでサンハウスの曲をじゃんじゃんやるのは凄い面白くて、夢の一夜が終わってさ。僕らも泣きそうになったし、古い曲やけれどお客さんもみんな一緒に唄って目に涙を浮かべてくれたり、その光景を見てとても幸せに感じてね。それで終わる予定やったけど、ライブ音源を聴き返したり、お客さんが撮った動画をSNSで見よったら、音楽って生きもんやし、曲も僕らと同じように歳とってきたのを感じてなんだかいとおしくなってきた。次のチャンスはないかと思いよったら、5月2日に下北のシャングリラでやる僕のバースデー・ライブに鬼平が駆けつけてくれると電話が来たので、それやったらはっきり“鮎川誠 play the SONHOUSE”と名乗って、全編サンハウスのセルフカバーでやってみようちゅうことになった。で、やってみたら「やり足らんね」ちなって。
奈良:どんどん欲が出てきた(笑)。
LUCY:サンハウスは歴代のメンバーがいっぱいいるから、やりづらい部分も実はあるんです。誰と誰でやるか、誰を誘うかっていう。お父さんがきっかけになると声をかけづらい部分もあるんですけど、今回は鬼平さんが松永浩さんの還暦祝いにかこつけて誘ってくれたので、お父さんが乗り気になった感じですね。
奈良:鮎川さんが乗せられたのが良かったのかも(笑)。
鮎川:今のシナロケはもちろん最高と思いよるけれども、それはそれとして、そのルーツとなったサンハウスの曲…全曲自分が作っとる曲をまた演奏できる喜びっていうのは僕しか分からんところがあると思う。
──なるほど。その余勢を駆って博多まで行ったわけですね。
鮎川:今度はぜひライブハウスで見てもらいたいと思って、晴れたら空に豆まいて、月見ル君想フと無理やっこブッキングしたんやけど(7月末からの『プレイ・ザ・サンハウス・ツアー 2020』)、ちょっと博多でリハをしたくなってね。
LUCY:ツアーをやるまで待ちきれなくなったんだよね(笑)。
奈良:僕も急遽、宿泊付きの格安航空券を手配して(笑)。
鮎川:最初は1泊するだけ、リハーサルだけの予定やったけど、“Play The SONHOUSE”のグループLINEを作ったら鬼平や松永の意見がバーッと来てね。「練習するぐらいなら本番やらん?」って。
LUCY:そのグループLINEが凄いんですよ。すぐ既読になるし、すぐ返信来るし(笑)。