流行っているものには手をつけまい
──渋谷クラブクアトロで行なわれたゲルニカの復活ライヴ(1988年7月)の模様も『TEICHIKU WORKS LIVE DVD』には収録されていますが、着物姿で骸骨を携えるヴィジュアル・センスも鮮度の高さを感じますね。
戸川:当時は大正時代や昭和初期を意識しておかっぱで着物姿という格好をしていたんですけど、あれも当時の流行りではなかったですし、いつの時代でも懐かしさを覚えるレトロな感じなんですね。ただ、レトロ・ブームというのはあったんですよ。『改造への躍動』を出した後、ゲルニカが休止した時にレトロ・ブームが降って湧いたんです。「今やればもっと売れるのに」なんて周囲からも言われましたけど、そんな次元を超えた部分でやっていたからこそ「古い」と言われなかったんですよね。流行っている時にそれに乗じると、後から「古い」と言われるものなんです。今は最近レトロ・ブームが来て去った後じゃないから、このゲルニカの映像を見ても余り古く感じないと思うんですよね。
──確かに。それはやはり、時代に対する戸川さんの嗅覚が鋭いということなんでしょうね。
戸川:いや、時代に対する嗅覚ということで言えば、ヤプーズ時代の膝上までの靴下やホットパンツとか、今の若い人たちが好んで着る格好をしていたことを指すのかもしれませんが、先ほども申し上げた通り、将来このファッションが流行るだろうと思ってやっていたわけではないんですよ。だから、時代に対する嗅覚があったわけではないと思うんです。仮に時代に対する嗅覚があったならば、新しいもの、今流行っているもの、古いもの…その3つのどれかに入れられると思うんですよね。でも、『バーバラ・セクサロイド』のPVで見られるような、網タイツをガーターで吊ってホットパンツを穿くファッションなんて当時はなかったんです。ガーターはあくまで下着であって、見せるものじゃなかったわけですから。しかも、当時はAV女優さんですらまだそれほど着用していなかったんですよ。ガーターを持っていること自体が凄く珍しかったんですね。それと、たまたま私の母親が伸び縮みしないガーターで吊る昔のストッキングを大量に持っていて、最初はそれを借りて履いていたんです。つまり、母親の時代のデッドストックですよね。だから、時代を先読みしているわけでもないし、その時流行っているものでもないんです。
──ただ純粋に自分のしたい格好をする、やりたいことを貫くことに重きを置いていた、と?
戸川:でも、気には留めていましたよ。流行っているものには手をつけまい、って。
──これは私見ですが、戸川さんがこれまで携わってきた音楽には追えば追うほど実態を掴ませないようなところがあると思うんです。だからこそ今日でも普遍性の高い音楽として鑑賞に耐え得るんじゃないかなと。
戸川:そうですか?私は凄くサービス精神が旺盛で、むしろ実態を「さぁ、掴んで下さい」と自分のほうから差し出すようなところがあると思っているんですけどね。たとえば、『玉姫様』に入っている『蛹化の女』という曲があります。“月光の白き林で/木の根掘れば/蝉の蛹のいくつも出てきし”という歌詞なんですが、ここで止めておけば現代詩みたいな風情も出ると思うんです。でもそれを、“それはあなたを思い過ぎて/変り果てた私の姿”とご丁寧に説明してしまっている。こんなサービス精神に溢れた唄い手はそうそういないと思うんですよね(笑)。私自身としては、一貫して判りやすい表現をしてきたつもりなんですよ。(BOXのフライヤーにある、刀を背負った『昭和享年』の写真を見て)『昭和享年』と言ってこの格好をしていたら、だいぶ判りやすいんじゃないかと思いますし(笑)。
過去の音源を聴いての新たな発見
──そう言われてみればそうですね(笑)。この刀は本物なんですか。
戸川:いや、竹光です。実はこれ、忍者の刀で、柄(つか)が四角くて両刃なんですよ。忍者は敵が右から来ても左から来ても刀を抜けるように、背中に真っ直ぐ刀を差しているんです。だから両刃で、刃もしならずに真っ直ぐなんです。
──それは、戸川さんの音楽人生がブレることなく真っ直ぐであることの象徴なんでしょうか。
戸川:それを言うなら、片刃が女優で、もう片刃が歌手みたいな感じですかね(笑)。
──今回のBOX制作にあたって過去の音源をまた聴き込んで、どんな印象を受けましたか。
戸川:当時は音楽的に気づかなかったことに気づけたところはありますね。私はゲルニカで音楽デビューする前、ロックに触れたのがパンクからだったんです。その前は懐メロやクラシックが好きだったんですけど。洋楽なら50'sですね。あれは向こうの懐メロですから。ずっと音楽を聴き続けていると、後からいろんな機会に恵まれて、パンク以前のハード・ロックとかグラム・ロックとか、いろんな音楽も徐々に知っていくわけです。そんな中で私はT・レックスが好きになったんですよ。それで今回、ずっと聴いてこなかった『大天使のように』を聴いて、それに入っている『去る四月の二十六日』の間奏のギター・ソロが凄くおかしかったんです。だって、マーク・ボランが弾いていたフレーズをマイナー・コードで弾いていたんですよ?(笑)比賀江隆男君というユニークなギタリストなんですけど、あの間奏は是非改めて聴いて頂きたいです。そういう発見がありましたね、過去の音源を聴き返してみて。
──『大天使のように』を改めて聴いて、照れくささみたいなものはありませんでしたか。
戸川:なかったですね。『大天使のように』がワースト・ワンだという思いは当時からあったんですよ。当時、アルバムの発売日が怖かったほどですから。レコーディングを終えた時点でリリースされるのが怖かったんです。ちゃんとした作品が作れずにファンの皆さんには申し訳ない気持ちでいっぱいでしたけど、どうすることもできなかった。レコード会社の人に「曲を1曲減らしたい」と言ったこともあります。収録曲が余りにもバラバラで、ヴァラエティに富んでいると呼べるレヴェルでもなかったから、1曲外すことでまとまりを持たせたかったんですよ。でも、「全部で9曲になるのはちょっと…」と言われてしまって。まぁ、人のせいにはできませんし、メンバーやスタッフ間でもっと話し合いが必要だったんですね。「出来が気に入らないからリリースをやめる」なんて横柄なことは言えませんし、リリースをやめたほうがファンの方に対して失礼だと思ったんです。不本意な作品を出さないことのほうがアーティスティックなのかもしれませんけど、アーティスティックか否かという考えで音楽をやってきたわけではないですから。ただまぁ、『去る四月の二十六日』や『森に棲む』といった大好きな曲も何曲かは入っているし、当時に比べれば今のほうが好きだなとは思いましたけどね。
──ゲルニカとして新宿ロフトに出演されていた頃、ロフトに対してどんな印象を抱いていましたか。
戸川:小滝橋通りにあった頃のロフトにはいくつか思い出がありますね。まず、ヤプーズがライヴ・バンドとして頻繁に活動をしていた頃に私が大幅な遅刻を繰り返していたこと。「女優の仕事は絶対に遅刻をしないんだから、同じように音楽もやってくれ」と中原に言われたりもしました。それは私、8 1/2(ハッカニブンノイチ)のライヴをロフトの外で2時間待たされたことが原点にあるような気がします。当時のロフトはそういう人たちが多かったんですよ。ウチは箱入り娘で門限があったから、リハの音だけを外で聴いて帰ったりしていました。そんな思いをしているのなら、自分だってお客さんを待たせるなよって話ですよね(笑)。もちろん、今はちゃんと定時に始めていますけどね。