単なる節目以上のものがこのBOXにはある
──遅刻の原点がまさかロフトにあったとは知りませんでした(笑)。
戸川:ゲルニカのライヴ・デビューは渋谷にあったナイロン100%だったんですけど、それは3バンドでの出演だったんです。久保田慎吾君が8 1/2の解散後に始めたプライス、東京ブラボー、ゲルニカという面子で。そのライヴの後がロフトだったんですね。テレグラフの地引雄一さんにデモ・テープを聴いて頂いて、それでお声が掛かったんですよ。ロフトの後が屋根裏。その3ヶ所でライヴをやった程度でゲルニカはメジャー・デビュー契約したので、下積みらしい下積みを経験したことがないんですよね。だから、レコード・デビュー契約する前にやった3回のライヴのひとつがロフトなんです。下積みと言うほどでもないし、何て言うんでしょうね、あの時期というのは。
──ピカソに喩えるなら“青の時代”ですかね?
戸川:あれほど苦労はしていませんでしたけどね(笑)。デビューすることを考えて苦労していれば下積みと呼べるんでしょうけど、デビューする気なんてまるでなかったんですよ。芸風を変える前なら“青の時代”とも言えるんでしょうけど、芸風も変わっていなかったですからね。ピカソで思い出しましたけど、ゲルニカとして発表する予定だった新曲で『キュビズム美人』という歌詞があったんですよね。『泣く女』とかで描かれた女性が美人で、みたいな曲だったんですけど(笑)。
──当時のロフトのステージは狭くてやりづらい所でしたか。
戸川:いや、そんなことないですよ。ステージに立つのは上野さんと私のふたりだけだったので、ちょうど良かったです。あとやっぱり、ロフトと言えばネイキッド・ロフトですね。東口トルエンズとして2回出演させて頂いて、その2回ともARBの『魂こがして』を唄いました。あのカヴァーは新宿ロフトとARBの関係性に対するオマージュですね(笑)。
──今年の11月5日には、『DRIVE TO 2010』で今の新宿ロフトにも久々にご出演して頂けるんですよね。
戸川:はい。こちらこそどうぞよろしくお願いします。歌舞伎町へ移ってからの新宿ロフトで思い出深いのは、PhewがやっているMOSTをよく見に行ったことですね。メンバーの誰よりも汗だくになって、最前列で踊っていましたよ(笑)。
──Phewさんは今なお戸川さんにとって大切なミュージシャンのひとりですよね。
戸川:そうですね。絶対数の少ない女性ミュージシャンの中で唯一、私と友達になってくれましたし。さすがに“Phewさん”とは呼ばないけれど、私はPhewに対してずっと敬語を使っているんですよ。「寂しい感じがするから敬語はやめて」と何度かPhewに言われたんですけど、「敬語を使わなくなったら生意気に聞こえますよ、絶対」と頑として今でも敬語を使っているんです。ちなみに、私が今書いている小説の中に、名前は変えてありますけどPhewをイメージした人物が少しだけ出てくるんですよ。
──芸能生活30周年というこの節目の年も、戸川さんにとってはひとつの通過点に過ぎないですか。
戸川:体調を崩した今の私を取り巻く状況がちょっと特殊で、そうじゃなければ通過点なんですよ。通過点と言うか、節目ですね。10周年の時は『昭和享年』、20周年の時は『20th Jun Togawa』というカヴァー・アルバムをそれぞれ出して、1枚のニュー・アルバムを発表するという意味では節目だったと思うんです。でも、今回は新たに録り下ろしたわけではないですし、まとめたのはテイチクの作品のみですからね。ただ、30周年ということもあるし、これだけの作品を収録したBOXは一生のうちにいくつも出せるようなものじゃないので、出すことにしたんです。去年、ソニーから出した3枚組ベスト『TOGAWA LEGEND SELF SELECT BEST & RARE 1979-2008』を出して、BOXなんてもう出せないだろうなと思っていたんですよ。その3枚組ベストや今回のBOXは、今の状態の中で私ができる精一杯のことであり、私の音楽を人に聴いてもらう絶好の機会でもあるわけです。そういう意味では、単なる通過点や節目以上のものがありますね。
──サービス精神に溢れた戸川さんらしい、作り手側の愛情がたっぷりと詰め込まれたBOXですしね。
戸川:CDとDVDはこれだけの枚数が入っていますし、ブックレットの読み応えもかなりあると思うんですよ。だから、もし掴もうとしてスルッとすり抜けるような私であるのなら、これだけの素材があれば結構その実態が掴めるんじゃないですかね。