ザ・ストリート・ビーツがメジャー・デビュー30周年を記念して発表するメモリアルな2枚組ベスト・アルバム『魂のクロニクル 〜DEBUT 30 YEARS BEST〜』は、スポットライトを夢見て広島から上京した少年が青の季節を駆け抜け、立ちはだかるいくつもの壁や自分の殻を壊し続けてワイルドサイドという道なき道を切り開き、十代の衝動に突き動かされながら拳を握って立つ男へと成長した歌うたいのクロニクルである。35年に及ぶキャリアの中から厳選された全42曲は、いつのときも真摯な姿勢で時代と格闘してきたビーツの軌跡を語る上でどれひとつ欠けても成立しない至高の"REBEL SONG"。今回はボーカル&ギターのOKIに「ビーツのターニング・ポイントとなった5曲」を選んでもらいつつ、逆境に晒されるたびに不屈の闘志で立ち上がり、歌の強度と輝きを増していくビーツの決して平坦ではなかった30年の歩みとビーツ・サウンドの根幹にあるものを紐解いてみた。(interview:椎名宗之)
予想以上に面白かった東京初ワンマン再現ライブ
──まず、2月10日に新宿ロフトで開催した『BEATNIK ROCKER CALL UP AGAIN』のことから聞かせてください。1988年2月25日に小滝橋通りにあった新宿ロフトで行なった東京初ワンマンのメニューを再現するという一夜限りのスペシャル・ライブでしたが、どんな意図で敢行されたんですか。
OKI:2018年がデビュー30周年、2019年が結成35周年という節目の年が続くということで、そのメモリアル・イヤーの一発目としてファンの人たちが熱くなれる、スイッチが入るようなことができないかなと去年の秋くらいから考えていて。で、東京での初ワンマンが30年前の2月のロフトだったことが記憶にあって、古い資料を探したら書き留めてあったセットリストが出てきた。それで当時のメニューをそのまま再現するのはどうだろう? とメンバーに提案したら「面白い!」と乗ってくれたんですよね。
──過去のライブのセットリストはこまめに残してあるんですか。
OKI:基本的にはノートに残してあります。バタバタだった時期のは所々抜けていたりもしますけど、大抵のはありますね。いずれはデータベース化したいなと昔から思ってはいるんですけどね。
──再現ライブは曲のテンポも落とさず、キーも下げずに臨んだのが驚異でしたね。
OKI:何せ10代〜20歳そこそこまでに書いた曲ばかりで、当時からキーの高いところで曲づくりをすることが多かったので大変と言えば大変だったけど(笑)、そこはまぁ何とかクリアできましたね。テンポやキーを下げると曲が別モノになってしまうし、空気感が全然違ってくる。だから今後もキーもテンポも下げることはないと思いますよ。
──当時のメニューを再現するという縛りがあるからこその面白さもありましたか。
OKI:予想以上の面白さがありました。再現ライブ自体、いままでやったことがなかったので。でも何より大きかったのは、こちらの予想以上にお客さんが喜んでくれたことですね。あの熱いリアクションを肌で感じて、こういう再現ライブみたいなことをやってみてもいいキャリアになったんだなと思いましたね。こういう企画ができるのもいまのメンバーのポテンシャルの高さありきの話だし、SEIZIはもちろんのこと、山根(英晴)、牟田(昌広)という4人の音があるからこそ成立するものなんでね。牟田くんも今年で復帰8年目、山根に至っては17年目。デビュー30周年のうちの半分以上は山根がベースを弾いてくれていることになるんですよね。本当にありがたいことですよ。
──新宿ロフトでの東京初ワンマンのことは鮮明な記憶として残っていますか。
OKI:強烈に覚えてますね。当時『BEATNIK ROCKER』(1988年4月)のレコーディングと併せて東京に来ていたんだけど、その日は青梅街道が大渋滞で、寝泊りしていた荻窪から新宿までの移動に3時間以上かかって大遅刻したという(笑)。ロフトに着いたのがたしか17時くらいとか。バブル当時の東京人には常識だった「ゴトー日」(5や10がつくキリのいい日にはすごく道が混む)の存在をそれで初めて知ったというね。
──当時のロフトはワンマンをやるにもすごく敷居が高かったと思うのですが、ビーツはわりとすんなりワンマンをやれたんですね。
OKI:そうですね、『宝島』や『FOOL'S MATE』といったメディアにも少しずつ取り上げられ始めたり、ちょっと評判が良くなってきていた頃だったんですかね。その前の年、1987年の夏に単身東京へ出かけて売り込みを始めてて、自主カセットやライブビデオ、プロフィールなんかをバッグ一杯に抱えて、いろんなインディーズ・ショップとかレコード会社、マスコミなんかに挨拶回りして顔をつないで。当時は「行商」と呼んでて(笑)。その流れでロフトにも挨拶をして、1987年の秋に初めてロフトでライブをやらせてもらえた(1987年11月1日、ビアズリーとのツーマン)。で、来年は勝負の年にしたいということで、1988年の2月25日にワンマンの日にちをもらえたんですよね。いま思えばラッキーだったし、当時現場にいたシゲさん(のちにロフトプロジェクト代表取締役となる故・小林茂明)がビーツをけっこう推してくれたことも大きかったんじゃないですかね。
──ビーツは当時のロフトでは恒例だった昼の部のオーディションを受けず、いきなり夜の部に出られたんですね。
OKI:俺が「昼はイヤだ」って言ったんですよね(笑)。自分では広島を背負って立つくらいの気持ちでいたんで、「ビーツは夜の部じゃないと困ります」とか言って(笑)。