最も合わせたくない二人の90分スペシャル対談!! 時代を作った二人のアブナイ話は終わることなく、話題は次から次へと10万光年彼方へ......。
この二人の対談が読めるのはRooftopだけ!!【Interview:加藤梅造/構成:高橋啓】
サッチー、ロフトからデビュー!?
加藤:サッチーの追悼ということで、まずサッチーについての話なんですが、もともと高須さんの事務所でお会いしたんですよね?
平野:高須先生が赤坂のいい所に事務所を構えて偉そうだというんで(笑)、じゃあ見にいこうかと。まあ表敬訪問だよな、高須さんに表敬訪問したんですよ。そしたらその時にたまたまサッチーがいて。高須さんも調子がいいから、突然、「平野さん、サッチーバンドを作ろう!」と勝手に言いだすわけだよ。サッチーがOKもしてないのに。それでみんな乗せられて。その日に記者会見開くとか言いだして、「サッチーがロフトからデビューするから」と。だからこっちは頭を抱えたよ。サッチーをどうやってフォローしてやっていいのかって。だからバンドのロティカ(ニューロティカ)に協力を頼んで。
加藤:有無を言わさない感じでしたよね。ちょうどサッチーが干されてた時だったんですよね。
平野:大バッシングにあってな。
高須:あのキモは平野さんが赤坂の事務所まででっかいオートバイで来たっていうところなんです。カルチャーショックだったのよ。それでその時に。平野さんがフワッと言ったのよ、あがた森魚がやった「オートバイ少女が…」って。それで『オートバイ少女』のことをなんとなく話し出して。俺は感動してて。あがた森魚は嫌いだけど、『オートバイ少女』は良かったよなって。俺はそれにすごいインスパイアされてて、そこにたまたまサッチーがいて今言ったような話になっていって。それでやりましょうって。
平野:あれは何年前だ?
高須:2001年?
平野:95年にプラスワンに来てるわけだから。
高須:9.11があった後くらいだよ。
平野:2000年だ。10月13日金曜日。私は赤坂に高須の事務所に当時のプラスワン店長だった加藤と訪れた。
高須:2001年9.11をまたいでる頃。前か後ろかどっちか。その辺の話。
サッチーの写真集を作ろう
平野:あの時代、サッチーは有名だったよね。バッシングがあって。もう芸能ニュースから何からすごかったもんね。メディアが叩きまくっていた時代に高須さんがサッチーに近付くんだよ。それはおもしろいから近付いたの? それまではサッチーと付き合いはあったわけ?
高須:ない。
平野:ほおほおほお。それじゃあ呼んだわけ?
高須:ある日突然、電話をかけて呼んだの。世間的には行く所ないじゃん、どこにも。そしたら彼女、それから毎日来るようになった。
平野:赤坂のいいところにあったもんな。俺も赤坂の事務所を見た時に、「高須さん儲かってんな」って思ったもんな。
高須:今の新橋の住所もいいですよ。
平野:それは知らないな。お前は浅草とか板橋とかいろんな所を転々としていて、高須の時代も終わったなと思ってたんだよ。高須さんの旬の時代は2000年ですよ。この時代、要するにいろんな人を脱がせて土下座して大騒ぎしたっていう、この辺の時代が高須さんの旬の時代であって。今はどうなってるんだろ。結構いろいろやってんの?
高須:そこが平野さんの俺に対する評価のちょっと違う所だよ。
平野:高須さんはやっぱりすごかったよね。
加藤:まあ、「マネーの虎」がありますしね。
平野:「マネーの虎」もすごかった。
高須:あれに出たのは2003年か4年くらいだったと思いますよ。今の方がすごいんですよ。
平野:今の方がすごいんだ。失礼しました。高須さんの噂っていうのは俺たちの世界で最近あんまり聞かないんだよな。
高須:今は横にいる奴がいないから。ほとんどいなくなっちゃった。今は、いろいろイベントやったり、地下で格闘技もやってるよ。前田に嫌われながらも懲りずに飽きずにやってるんだよ。
平野:1年半前に高須さん、ロフトラジオ(※平野がやっていたネットラジオ)やりましたよね。これを聞き直したらむちゃおもしろいんだよ。高須さんここまで言っちゃって大丈夫? って。そんなにヤバイこと言ったらヤバイですよ。あのラジオは2000アクセスくらいだからいいとしても、TABLO(※この対談の全文が掲載されるニュースサイト)は月100万アクセスですからね、久田(将義)と組んで。高須はサッチーと組んでってだけじゃなくて、(島田)紳助の話から何から全部話してもらうわけだけど、大丈夫かよ。ガハハハハハ。脱がせ事件から始まるんだけど。まずはサッチーの追悼ということで。サッチーはどうでしたか?
高須:僕はそれと前後して写真集をやってたわけよ。それはナイタイ(ナイタイ出版)の山田が元に立っていて、実質は俺が作ってたわけじゃない。あの当時、俺は自分で出版社を持ってなかったわけじゃないですか。それで一番最初にロフトにお邪魔した頃は、アドベント映像って名乗ってたと思うんですよ。ほとんど名前のない会社で金になればいいやってことが先にあって、あんまり自分が前に出るってことはなかったわけよ。それが96年に平野さんのとこに出ることになって。それが俺がメディアに出ることになった一番最初だから。
加藤:プラスワンですね。
高須:そう、そこまでは何もやらなかったの。水面下でとにかく、金くれ金くれで。
平野:この頃は凄いですよね。ヌードで藤田朋子から何から。
高須:でも、それはずっと後なんですよ。名前を出す前の方が儲かってたのよ、俺。それで最後の方には俺の名前を出さなかったのも何人かいるんだけど。サッチーも名前は出してない。当時、サッチーがメディアにあんまりにもガンガンやられてて、あんまりうるさいっていうので日本青年社の副会長が動いて、いろんな人を抑えにかかったわけよ。それで、その紹介でナイタイが動いてじゃあ写真集やりましょうっていう話になって。それで、じゃあ僕の所にって指名がきて、水面下で写真集をやってるわけよ。それがサッチーとの最初の商売。
平野:サッチーの写真集を作ろうと思ったの?
高須:俺はナイタイの丸山さんに写真集やっちゃったらいいじゃないですかって。
平野:ヘアヌード? あんな、おばはんの?
高須:話題になってくれれば誰でもいいわけですよ。当時は有名人の毛が落ちれば誰でもいいっていうスタンスだったんで。サッチーやりましょうってなったんですよ。それが2000年くらい。それが一番はじめのサッチーと僕との付き合い。それでその後、平野さんがお見えになった後、写真集も売れて。でもサッチーは、「高須がやったっていうとヘアヌードになっちゃうから、一応ナイタイには出す」ってスパッと言って、会見なんかは全部俺が仕切ってたわけよ。そんな間柄で信頼は強かったんじゃないですか。それともう1コは前後して、『日本一勇気ある嫁』っていう本ね。息子の克則、団野村、ケニー野村って問題だらけだったじゃないですか。3人目の息子の克則の結婚の時にその奥さんの本を出したいって言って。それは普通の本だったんですけど、いい本だったんですよ。写真集と『日本一勇気ある嫁』、この2冊の本、それがサッチーとの繋がりだね。
と、まだまだお話しは続きますが、この続きはTABLOにて!!
TABLOでは全文掲載いたします
http://tablo.jp/