自分ひとりのアイディアだけでどこまでやれるのか?
──ということは、新メンバーはすぐに決まったわけですね。
吉田:2009年の10月に『A GIRL SUPERNOVA』が発売された直後から新メンバーを探し始めました。2010年の1月にはメンバーがすでに決まってましたね。「3月に現行の編成が終わるから、それ以降は一気に曲作りをするのでよろしくお願いします」と伝えて。
──保田さんはその時点で新メンバーではなかったんですよね?
吉田:確か最後のライブの直後にやっさんから電話が来て、「吉田さん、俺やっぱり戻りたいです」と言われて。「何だよ、それ。もう新しいベーシストは決まっちゃったよ」って言ってやりましたけど(笑)。
──それで保田さんがギターに戻ったんですね。DJミステイクさんと松石ゲルさんを新メンバーに選んだ決め手は何だったんですか。
吉田:DJミステイクはもともとスッパバンドというスッパマイクロパンチョップさんのバンド・バージョンのベーシストで、そのスッパバンドが特殊なバンドなんです。スッパさんがアコギの弾き語りで唄う曲を全員がうろ覚えで伴奏するんですよ。練習も一切なしで。それができるのは凄いなと思っていて、実際にジャムったら彼女は臆するところがひとつもなかったんですよ。途中で訳が分からなくなって弾けなくなることもないし、間違っていても堂々と弾くんです。その肚の据わったところが気に入ったんですね。松石ゲルは僕の従兄弟で、ちょっと前から彼の自宅兼スタジオにちょくちょく遊びに行ってギターとドラムでジャムったりしていたんですが、リズムのタイム感が凄く合ったんですよ。唯一のバンドやってる親戚だからPANICSMILEのCDが出るたびに渡していて、それも好きで聴いてくれていたみたいで。こちらが何の注文をしなくても、最初から僕のへんちくりんなギターに合わせてドラムを叩けるのは凄いなと思って。彼は彼でGSや歌謡曲、和モノシーンで頑張っていたので、「そういう看板とはまた別に僕らみたいなバンドで叩くのはどう?」と訊いたら快諾してくれたんです。
──毎月合宿を続けつつ、時折変名でライブをやっていたのは、バンドとして段階を踏む必要があったからですか。
吉田:実験みたいなものですね。あとやっぱり、DJミステイクと松石ゲルには未経験の感じだったようで、いざ曲作りを始めてみると固かったので。まぁ、例によって僕がカチコチな空気を出していたんでしょうか(笑)。やっさんはもともとギターを弾いていたので「肩肘張ることなく弾きなよ」と言ったんですけど、10年間ベース弾いてましたしね。そんなガチガチの状態じゃ埒が明かないから、一度ライブをやってみることにしたんです。たまたま友達が仙台のマカナのイベントに呼んでくれて、それが新規メンバーでの筆おろしライブだったんです。「今は完全に初期化した状態だから、バンド名を変えて出てもいい?」とお願いして、“70 STATIONS”という名前で出ることにして。「小田急線の駅は70個ある」って意味なんですけどね(笑)。
──その当時の吉田さんはまだ東京で生活していましたよね。
吉田:まだスペースシャワーネットワークの仕事をしていたし、福岡へ帰る気も全然なかったし、いくらでもリスタートしてやるぞと思ってましたね。
──その原動力はやはり、第4期のメンバーを見返してやるという思いですか。
吉田:意識はしてました。石橋さんが叩くドラム、ジェイソンの弾くギターの面白さで第4期のPANICSMILEが成り立っていたのは重々承知だったんですけど、そこじゃなく、別の角度からでどこまでやれるのかを試してみたかったんです。第4期の編成になった『10 SONGS, 10 CITIES』からは僕が唄うのをやめるくらい石橋とジェイソンの個性が出まくっていたし、石橋さんがもう1人の裏リーダー的な状態で10年続いていたので。
──現編成になった直後のPANICSMILEのライブを見て、これはいい意味で過渡期だなと感じたんですよね。音数が削ぎ落とされてミニマムになったぶん、バンドが音と闘っている必死さが伝わってきて、これはこれで面白いなと思って。
吉田:ああいう僕らがよくやる、全員が噛み合っていない拍子で演奏するのとかはちょっとやめて、ビートルズで言うところの『GET BACK』じゃないですけど、淡々とした8ビートの曲をやるところから始めたんです。自分が影響を受けてきたルースターズやストーンズみたいな8ビートにしか出せないグルーヴに正直になってみたかったのもありますね。それは昔からずっとやりたかったことなんですよ。そういうのをテーマにジャム・セッションを始めたし、今度のアルバムに入れたのはそこから生まれた曲ばかりなので凄くストレートだと思うんです。ただ、最初はやってもやっても何のマジックも生まれなかったし、すべてが予想通りだったんですよ。どの曲も思った通りで、思った通りというのはつまり、思った通り以下なんですよね。それプラス何かの化学反応が起こって初めて、自分が思った通りのPANICSMILEになるんです。
過去のレパートリーをやってみて光が見えた
──それが変化したターニング・ポイントは?
吉田:過去のレパートリーをやってみたことですかね。震災直後の4月にフィーバーでライブをやったんですよ。folk enoughのレコ発で、Limited Express (has gone?) やおとぎ話と一緒に出て。その時にやっとPANICSMILEと名乗ったんですけど、そこでやったのはその前の年から試していた新曲ばかりで、あまり納得できなくて。『A GIRL SUPERNOVA』の延長線上にあるような歌モノっぽい曲もあるし、福岡時代の8ビートっぽい曲もあるし、今のPANICSMILEはこれでいいんじゃないか? と言ってくれた人もいたんですけど、僕自身は全然満足できなくて。1年間合宿を続けて試行錯誤を続けてきたものの、全然こういうことじゃないよなと痛感したんですね。で、「試しにちょっと昔の曲をやってみる?」とメンバーに提案して、実際に演奏してみたら、これが意外と良かったんですよ。
──今のライブのセットリストにも組み込まれている「POP SONG」とか「GOODBYE」とか。
吉田:そうですね。あと、「DON'T FOLLOW YOUR PANICSMILE」や「THE ELECTRIC SEA」とか。「ああ、各々の解釈でけっこうやれるものなんだな」と思って。この4曲は普通に8ビートですが一番の決め手は「A GIRL SUPERNOVA」だったんですよ。この曲普通にやれるんだなと(笑)。それで試しに曲作りのセッションの時にちょっと発想を変えてやってみて、そしたらそういうのが別の角度からできたので、これはいけると手応えを感じたんです。それが今回のアルバムで言うと「WESTERN DEVELOPMENT 2」や「OUT OF FOCUS, EVERYBODY ELSE」なんです。単純に思いっきりの問題なんですよね。ジェイソンのバークレー音大仕込みの速弾きは、あれはあれとして置いておいて、やっさんにはやっさんのポップ・センスがあるから、弾けることがあるはずで。あと、リズム隊はどんなおかしな演奏もねじ伏せるんですが、やっさんはちょっと時間がかかったかな。
──オリジナル・メンバーなのに(笑)。
吉田:フィーバーでやったライブからの1年間、2012年の4月くらいまでは、福岡でPANICSMILEを始めた当初の1993年頃に戻ったみたいな状態で、僕はずーっとやっさんに文句を言い続けて(笑)。
──保田さんのギターに対して何が不満だったんですか。
吉田:何と言うか、収まりのいいギタリストって言うか。
──ずっとベーシストに転向していたのもあるんでしょうね。
吉田:そうなんです。後で僕も酷なことを言っちゃったなと反省したんですけど、10年間ベースを弾いていたからだなと思って。ベースでは攻める側じゃなく、支える側をずっとやっていたんですよね。「難しいフレーズは弾かなくていいから、ファーストやセカンドの頃みたいにギャーン! と暴れ散らかすようなギターを弾いてみて」とやっさんには話していたんですが、それがなかなか伝わらなかったみたいなんです。新曲もたくさんボツにしまくったんですよね。フィーバーのライブの後の1年で20曲くらい作って、松石ゲルのスタジオで試しに録ってみたんですよ。でも最終的にはなんかやっぱりダメで全部ボツにしたんです。
──それも大胆ですね(笑)。ネックになったのは、やはり保田さんのギターだったんですか。
吉田:音の納まりのイイ感じもそうだし、「俺たちはもともとプッシー・ガロアが好きだったじゃん!」ってところから始めて、一時はリハビリしているような感じでした。
──今から3年前は、バンド史上稀に見る暗黒期だったわけですね(笑)。
吉田:そこからやっさんの意識が変わったのは、ひょっとしたら僕が福岡に帰るかもと言った頃からかもしれないです。当時はまだどうなるか分からなかったんですけど。