ある日、PANTA、山口冨士夫、鮎川誠(他にも数人はいたと思うが記憶にない)、いわゆるロック系の数人が集められ、反原発についての対談が行なわれた。『ダカーポ』という雑誌の企画だったが、それを仕切る関口という通称ケロヨン(中核派ではなくいわゆるニックネームとして)は関東学院の後輩。いろいろ議論が出尽くすなかで、自分に発言がまわされた。
「エネルギー問題として、そう単純に原発を語ることはできない」
という返事をまずは返した。
まだ反原発などという運動はまったく盛り上がってもいない時代ということもあったし、母がペナン島で海軍従軍看護婦として働き、マラッカ海峡の話など寝物語にいつも聞かされて育っていたので、日本のシーレーン(当時、こんな言葉はないが)、命綱としての化石燃料(こういう言い方も当時はなく)の輸送というのは車が大好きな自分としても、とても大事な課題だったのである。
そんな会話のなかで、エネルギー問題に関わるいろいろな自分の考えを小難しく話していると、となりの山口冨士夫が口を開き、
「 簡単だよ、“反対”って言えばいいんだよ」
という言葉を返され、返す言葉もなく呆気にとられてしまったのだった。
山口冨士夫との出会いはダイナマイツから始まり、その後、京都(高円寺育ちのくせして)の村八分として東の頭脳警察と並び知られていた。その「“反対”って言えばいいんだよ」の一言ほどショックを受けたことはない。
そう、そうだよな、それがロックなんだよな。グダグダ御託ならべるんじゃねえよ、単純にダメなものは“反対”って言えばいいんだよな。かすかに首を縦に振るしかなかった自分の思考方法はそれからずいぶんと変わったと思っている。
それまでロックは反発の反だ、反抗の反だとかやたら理屈をこねていたくせに、冨士夫の一言で人生を変えられたことは大いなる転換となったのは言うまでもない。論客でもなく理論家でもなく、いわゆる文化人などというものでもなく、ただただ不良が楽器を持っただけのロック屋は、ただそれだけでいいといまも思っている。
そんな生き方を教えてくれた山口冨士夫に感謝しつつ。