1995年夏、新宿の片隅に、30人も入れば一杯になってしまう小さなトークライブハウス「ロフトプラスワン」がオープンした。数年後、歌舞伎町のど真ん中に引っ越して来てもう14年も経つ。私が50歳にならんとしている時、一念発起して世界初の「トークライブハウス」をぶち上げたのだった。
海外から10年ぶりに日本に帰って来て、「さて、以前のように日本のロックの第一線に立とう」と思った時、私は全くの浦島太郎状態だった。どんなミュージシャンを聴いても、以前は確かにあった「ロックへのカン」が、まるでピンと来なかった。当時、西新宿にあった新宿LOFTの立ち退き訴訟問題もあり、5年近く住んだドミニカ共和国の店を引き払って日本に帰って来たわけだが、自分の居場所がないというのは心苦しいものだ。私は新しく作るしかないと思った。それがロフトプラスワンだったのだ。
(左から)今回仲介役&司会をしていただいた中川右介氏(編集者・音楽評論家)、菅直人元首相、平野悠
第94代内閣総理大臣・菅直人氏プラスワン登場
11月10日、ロフトプラスワンは前内閣総理大臣・民主党最高顧問菅直人氏を迎えることになった。久しぶりの「大物出演者」である。今から約10年前、プラスワンのステージに野村克也監督夫妻、アントニオ猪木、せんだみつおの4人が並んだときがあった。大手メディアでバッシングされていた、野村沙知代さんがつないだ縁だった。私はこの時席亭として、天を仰ぐくらい感動していた。「もうこの空間もいつ終わってもいいな」ぐらいに思った。
そして今回は、それにも勝る「大物」が出演してくれるというのだ。なにしろ元首相である。この出演のきっかけはTwitterだった。「俺の兄(中川右介氏)は菅直人と家族付き合いをしている」という、中川文人さんのつぶやきを見て、私は「できたらプラスワンに出演して欲しい」と依頼したら、なんと承諾してくれたのだった。晴天の霹靂である。
市民運動出身者が総理大臣になった。3.11直後、最前線の官邸には何の情報も上がって来ない。テレビでは爆発が映し出されているのに、誰も情報を把握していない。首都圏からの5000万人避難という、最悪のシナリオも考えたという
あの日、官邸で何が起こっていたのか
「普天間基地を国外に、せめて県外に」とぶち上げ、アメリカとの距離を置こうとした鳩山前総理の主張は私も評価していたが、アメリカと官僚とマスコミによって倒されてしまった。
その後を継いで首相となり、脱原発の道筋をつけ浜岡原発を止めた菅直人さんも、色々な既得権を持つ原子力村勢力(東電、官僚、産業界、記者クラブに代表されるマスコミ)に引きずり下ろされた。結局、民主党は原発を推進する自民党や公明党と変わりなくなってしまった。これではなんのために政権交代したのか解らないくらい酷い、野田内閣になってしまった。
当日は、超満員でSPが会場内を警護する中、トークは始まった。私は緊張し、そして興奮していた。ロフトにとっては歴史的な瞬間だ。私が一番恐れたのは、政治家にありがちな自己賛歌の演説会に終わらないように、ということだった。ゆえに聞き役を、中川氏とともに私が務めることになった。
おっと……。なんとももう原稿の枚数が限界に来てしまった。この日のトークライブの模様は、ロフトチャンネルのアーカイブで誰でも観られる。総理があの3.11の東日本大震災と原発事故に対して、何をやって何ができなかったかと、菅さんの人間性に、ぜひ触れて欲しい。菅さんの新刊『東電福島原発事故 総理大臣として考えたこと』(幻冬舎新書)にも目を通せば、より詳しくあの当時の官邸の様子がわかるはずだ。
約10年前、ステージが終わって記者会見中の野村夫妻