Text by ISHIYA(FORWARD / DEATH SIDE)
あれもこれもダメだと管理・支配し、それを破る者を排除する統治を自由と呼べるのだろうか
先日、新宿を歩いていたら、目の前にいたおっちゃんが、抱えていた段ボールを一枚落としてしまった。
俺が拾い上げて渡すと、手の力が抜けたのかなんなのか、抱えていた段ボールを次々と落としてしまう。
「また落ちちゃったよ、おっちゃん」
と、笑いながら再び段ボールを拾って手渡すと、不思議そうな顔で俺を見つめ、言葉にならない「ありがとう」を口の動きだけで言っていた。
夕方ごろの新宿だ。周りに人は大勢いる。でもおっちゃんが困っている姿は誰の目にも入らず、無関心なまま日常のひとコマのように通り過ぎていく。
口の動きだけで「ありがとう」と伝えたおっちゃんと、どう見ても困っている姿を見過ごす人が、同じ空間、同じ時間、同じ場所に存在していた。
子どもの頃から誰かに言われたのか、はたまた授業で教わったのか、はたまた絵本や教科書に書いてあったのか、テレビの野生動物番組で言っていたのかはわからないが、誰しもが記憶にある言葉に「弱肉強食」というものがある。
「弱肉強食」とは、韓愈『送浮屠文暢師序』による語で、「弱い者の肉が強い者の食料となる」という意味から、弱者が強者の犠牲になること、強い者が弱い者を餌食にして栄えることを指す。(コトバンク)
俺の著書『異次元の常識──パンク/ハードコアの思想とメッセージ』の中でも書いているが、弱肉強食が当然のものとして受け入れられる社会とは、本当に正しいのだろうか。
いや、正しいか正しくないかという判断でさえ、おかしいようにも感じている。
例えば、いま自分が考えている「正しいこと」とは、いったいどこから来たものなのか。
それはただ単に、そう思わされているだけとは考えられないだろうか。
人間は何かに縛られ、支配されなければ生きていけない生き物なのだろうか。
『異次元の常識──パンク/ハードコアの思想とメッセージ』の中で、元CRASSのペニー・リンボーがこう言っている。
『どんな形であれ、私たちはそのシステムの奴隷です。選挙で誰かの名前を書くことは「自分が奴隷でいることを承諾している」という確認になります。私はこれまで一度もそうしてこなかったし、これからも鎖につながれる気はありません。だから投票はしない。興味もありません』
俺はインタビューの翻訳が上がってきたときに、この言葉に違和感を覚えた。しかし今となっては非常に納得がいっている。
俺が感じた違和感は、選挙に行く、行かないの部分ではなく、「私たちはシステムの奴隷だ」という部分だ。
しかし、金がなければ生きていけない、道路がなければ生きていけない、スマホがなければ生きていけない、ネットがなければ生きていけない、家がなければ生きていけない、etc.、そのために何かをしなければならない。
それら全ての奴隷である現実は、動かしようがない。
そうやって、それらに依存しなければ生きていけない状態そのものが、権力支配の構造とでもいうべきものなのではないのか。
便利なものを「なければ生きていけない」と思わせることで、人間を管理しているのではないのか。
それというのも、最近読んでいる本の中に「サイバネティクス」という言葉が出てきた。
わかりやすく言うと、ミサイルが飛んできたときに、何度も迎撃ミサイルを撃ち続けて外し続けていくと、どこをどう外したかなどでデータが取れるようになる。その情報をもとにズレを修正していくことで、標的を正確に捉えられるようになる。そういう仕組みをサイバネティクスと言うようだ。
この仕組みは、現代のサイバー技術でも使われている。どこの誰が、いつ、何をしたか。インターネット上にある情報が集められ、分析され、修正されていくことで、特定の個人が浮かび上がるようになっている。
先ほどの「それがなければ生きていけない」の話に戻ろう。
現代で一番人間を支配しているのは、デジタル技術ではないだろうか。
そして人類はすでに、デジタル技術からは逃れられない生活になっていないだろうか。
ここでペニー・リンボーの言葉を思い出してみてほしい。
「どんな形であれ、私たちはそのシステムの奴隷です」
そして、その奴隷状況から抜け出すためのヒントが、世界中のパンクスの言葉で書かれている。
俺のコラム部分はついでで構わない。宣伝のようだが、興味を刺激されたならば、電子書籍も販売されているので、ぜひ『異次元の常識──パンク/ハードコアの思想とメッセージ』を読んでほしい。
先ほど挙げたペニーの言葉にある『選挙で誰かの名前を書くことは「自分が奴隷でいることを承諾している」という確認になります』という言葉も、今は完全に腑に落ちた。
選挙に行く行かないは自由だし、好きにすればいい。
あっちで奴隷になるより、こっちで奴隷になったほうが条件がいい。
俺には、自ら望んでその選択をしているようにしか思えなくなっただけの話だ。
別の政府が立ち上がっても、また別の権力による支配が始まるだけだ。
誰かが権力を握り、民衆が奴隷となる。その形は変わらない。
その構造は、現在の社会の構造全てに繋がっていると俺は感じている。
民主主義というものも、政治に参加しているという意識のもとで「民主主義で決まったのだから従え」という支配構造なのではないかとも思い始めている。
正義の名のもとに民主主義があり、民主主義の支配から逸脱する者は悪だとも言わんばかりだ。
選挙に行かなくてはダメ、ルールに則らなければダメ、あれもダメ、これもダメ。
日本ではデモでさえ「これをやってはダメ」というルールが存在する。
現在、フランスで高校生たちが、学校・学習環境の悪化への抗議でデモを行なっている。海外のデモでよく見られる破壊行為も行なわれているが、日本のデモで破壊行為は見られない。
主催者のルールがあり、破壊行為などをしたら弾圧され、デモや集会ができなくなる上に、一般的な参加者がいなくなってしまうからといった理由だと、俺は思っている。
海外のデモでは、全身真っ黒な格好で投石や施設の破壊行為を行なう人々が「ブラック・ブロック」と呼ばれ、単なる暴徒として報道されることが多い。そうした理解が一般的に浸透していると思う。
しかし、ブラック・ブロックは本当にただの暴徒なのだろうか。
そもそもブラック・ブロックとは、特定の組織の名前ではない。
『The Black Bloc Papers』によれば、その原型は1980年代のドイツの自治運動の中で形になり、黒い服やマスクで匿名性を保ちながら、その時々のデモや抗議行動の中で一時的に形成されるようになったという。
本文より
デモ行進の先頭、後方、または周縁部に陣取り、通常は脆弱な地点で強力な防御態勢を整えた。こうすることで、警察はまず、非常に戦闘的で献身的かつ準備万端なデモ隊を制圧することなく、デモの動きを妨害することができなかった。
〜中略〜
大規模な抗議活動集団の中で突撃部隊や防衛部隊として活動するだけでなく、資本主義的な私有財産を意図的に破壊するという攻撃的な役割を担うようになった。
〜中略〜
ブラック・ブロックのもうひとつの役割は、抗議活動をより過激で社会全体を巻き込む方向へと推し進めることである。
〜中略〜
逮捕に抵抗し、許可されたデモ行進ルートにとどまることを拒否し、警察のバリケードに挑み、企業を標的に積極的に怒りをぶつけることで、ブラック・ブロックはこうした緊張の高まりを確実なものにしたのである。
ブラック・ブロックは固定された組織でも、指導者を持つ集団でもなく、共通の考えを持つ個人や小さなグループが、その場で結びついて行動する。
そしてこの資料には、ブラック・ブロックによる破壊行為について、こう書かれている。
「企業メディアの不正確な主張とは裏腹に、恣意的な破壊行為は、ブラック・ブロックの目的や活動内容であったことは一度もなく、現在もそうではない」
つまり、ブラック・ブロックは無闇矢鱈に何でもかんでもぶっ壊しているわけではない。
基本的に銀行や巨大企業、警察車両など、資本や国家権力を象徴するものを意図的に標的としている。
こうした行為を「暴徒」とひと括りにすること自体が、支配や統治の手段のひとつであり、そこに個人的に大きな違和感がある。
しかし今の日本でそれを言っても伝わらないだろう。
俺個人としてはデモには意味があると思っている。しかし、決められたルールから逸脱すると排除の対象になってしまう。それが国家や資本主義のみならず、デモの現場や抗議活動、民主主義と呼ばれるものの中にも存在する。
暴れてはダメ、壊してはダメ、選挙に行かなくてはダメ、金を稼がなくてはダメ、あれもダメ、これもダメ……。
デモで破壊行為をしろと言っているわけではない。
選挙に行くなと言っているわけではない。
いちいちあれもこれもダメだと言って管理・支配し、それを破る者を排除するような統治を、自由と呼べるのだろうか。
ああ、それを民主主義と呼ぶのか?
誰も段ボールを落としたおっちゃんに声をかけない。
金がなく、消費できず、社会のルールとやらを守れなければ排除される世界。
そんなもんは嫌だ。
ただ自由でいたいだけなんだ。
自由ってそんなに縛られてがんじがらめのものじゃないはずだ。
てめぇらしく生きる者には物言う場所すらないのかね。
PILEDRIVER『勇気』
日常生活見ている物にそんなに大事な物はねぇ
目くらましなんかくらわねぇように 勇気を出し拳を挙げる
しかしてめぇらしく生きる者には 物言う場所も無いらしい
そんな所で本当の悪が 見え隠れするんだ
それでも俺たちは負けたりはしねぇ
ボロクソにされても立ち向かうだけだ
眠い目こすってテレビと討論 何も変わりゃしねぇ
クソ面白くねぇたわごとばかりの連中の声は受け入れねぇ
てめぇらしく生きる者には 物言う場所も無いらしい
この国はばかる奴らの押し付け見え隠れするんだ
それでも俺たちは死んだりはしねぇ
持てる勇気を出し立ち上がるだけだ
参考文献
『アナキズム 一丸となってバラバラに生きろ』栗原康 著(岩波新書)
『われわれの友へ』不可視委員会 著(夜光社)
『農民たちのあいだで アナーキーについての対話』エッリーコ・マラテスタ 著(マヌケ出版社)
◉PILEDRIVERは1987年から横浜・東京を中心に活動を開始、ハードコア・シーンにおいて唯一無二の存在感を放ってきたバンド。「勇気」は、1991年にDiscipline / Vinyl Japanからリリースされた日本のハードコアパンク・バンドのコンピレーション・アルバム『Who's Chained Up To The Dogs Of Outrage!! 〜Japanese Hardcore Sampler Vol.2〜』に収録。
【ISHIYA プロフィール】ジャパニーズ・ハードコアパンク・バンド、DEATH SIDE / FORWARDのボーカリスト。35年以上のバンド活動歴と、10代から社会をドロップアウトした視点での執筆を行なうフリーライター。


































































