Text by ISHIYA(FORWARD / DEATH SIDE)
そのスマホをいじって投稿する前に、他者の思いを少しでいいから考えてみないか?
俺は昔から映画や本が好きで、今でもほぼ毎日、映画を観たり本を読んだりする。金を持って本屋に行くのは危険だ。気づけば2〜3冊、もしくはそれ以上の本を手に取り本屋の中を徘徊して散財してしまう。
映画になると、最近はNetflixのように家に居ながらにして様々な映画を観られるので、映画館へ行く機会は少なくなったが、それでも楽しみにしている映画や単館上映ものの作品で興味深いものがあれば映画館へ足を運ぶ。
他にも好きな画家の作品が鑑賞できるときには美術館へも行くし、個人的に惹かれる感覚がある写真を見るのも好きだ。バイクに乗っていた頃にはキャンプへ行って自然を楽しむのも好きだったし、もちろん音楽も聴くしライブにも行く。音楽に関してだけは、趣味の域を超え人生の根本となってしまったが、こうした感性を刺激するものを自分へインプットするのが好きだし、楽しい。
俺は57歳になる今でもバンドをやれているし、幸いにも自分の好きな内容の文章を書いて、この連載のほかにも著作まで出させてもらえるようにもなった。そうした公のアウトプットの場があるために、人生においてインプットは、それまでよりもさらに充実感を増す重要なものになっていった。
2008年に公開された、故・若松孝二監督の映画『実録・連合赤軍あさま山荘への道程』という映画があった。俺は若松監督の大ファンだった上に、学生運動や左翼運動も本で読み興味を持っていたために、この映画が公開されるまで非常に楽しみにしていた。
若松監督は1970年代には中東へ渡り、日本赤軍の重信房子などとも行動を共にしながらゲリラ活動へも参加した経験を持つために、60年代から始まった学生運動や過激派などのひとつの区切りとも言える、連合赤軍による「あさま山荘事件」を、一体どんな描き方をするのかワクワクしながら上映初日の映画館へ向かった。
当日は映画上映の他に、若松監督を含めた何人かの登壇者が上映前にトークショーを行なう企画があった。映画を観る前に当時を知る人たちのトークには興味深いものも多かったのだが、ただひとりの登壇者のために、全てがぶち壊しになってしまった。
その登壇者が話し始めると、一応、若松監督に「言っていいの?」と訊ねて確認をとり、若松監督が頷いたために話したのだとは思うが、公開初日の映画の集大成である言葉を、上映前のトークショーで言ってしまったのである。
その言葉が非常に大切な台詞で、作品として言いたかった言葉であったのは鑑賞後にわかったのだが、満員の館内で、その場にいる観客全員が楽しみにしている映画の答えと言える台詞を、上映前のトークショーでバラし、それについて持論を述べまくるという信じられない行為を行なった。
その台詞の重みや意味も、観た人によって様々な捉え方ができる素晴らしい映画であったにもかかわらず、そのひとりの登壇者により全てが台無しだ。
自分が一体どの立場でそこにいるのかすら考えなかったのだろうか。いったいどういう感覚ならば、上映初日の上映前のトークショーで一番大切な内容を言えるのだろうか。どうしたら、他者の楽しみをそこまで簡単に奪えるのだろうか。しかし当の本人は、なんとも思っていないのだろう。
映画や本にしても、自分の感性にインプットしようとしている作品の内容を、求めてもいないのに勝手に事前に知らされて気分のいい人間がいるのだろうか。初見の衝撃が薄れてしまい、感性への影響や楽しみの度合いが全く違うものになってしまうとは考えないのだろうか。非常に不思議で腹立たしい体験だった。
しかし近年インターネット情報やSNSの普及により、ネタバレは防げなくなっていると言っても過言ではない。
『実録・あさま山荘への道程』の登壇者のように、自分の欲求を満たし自己満足を得るためだけに、何も考えずに内容を晒し「ワクワクする」という、人の素晴らしい大切な感覚を容赦なく奪う。
本人が気づいていないところがまた問題で、その行為によってどれだけ失望があるのかさえ考えないし、気づけない。他者が持つワクワクするような楽しい気持ちよりも、自分を満足させるためだけの投稿やつぶやきが大切になっている。
SNSやインターネットによって考える力を奪われていないか?
そのスマホをいじって投稿する前に、他者の思いを少しでいいから考えてみないか?
その何気無い投稿で、他者の大切なものを奪っていることにさえ気づけなくなっちまったのか?
個人的な欲望だけを押し付けられた他者は、どんな思いになると思う? 少しでいいから考えてみないか?
俺たちのような動物の権利を主張する人間たちに対して、よく「押し付けるな」と言うじゃないか。「殺して当たり前だ」という意見に「殺すな」と言うだけで押し付けになってしまうのだから、自分が押し付けているかもしれない可能性ぐらいは考えようよ。
少し待てば公になるものがあり、その内容で知っていることがあったとして、それを公になるよりも先に発表することが「楽しさ」なのか? それで持論を展開して喜ぶ他者がいるのか?
その投稿は、自分「だけ」は楽しいのかもしれない。でも、そこはグッと我慢して、公になった暁に「あそこがこうだったよね」「ここがすごかったよね」「あれはイマイチだったね」と、誰かと共有しあえるのが「楽しい」という感覚じゃないのか?
人の楽しさの定義はいろいろあるだろうが、自分が内容を知っているからこそ、他の誰かが知った後に「だろ?」「そう! 実はあれさ」といった感じで、さらに楽しめる状況になるのは、ほんの少し考えればわかるよね? そのほうが楽しくないか? 俺がそう思うだけなのか?
SNSによって、他者を思いやる心が以前よりもさらに奪われている気がする。こんな些細なことさえ気づけないなんておかしいよ。
他者の痛みや苦しみもわからない上に、楽しさの共有すらできなくなっちまったのか? 本気でおかしいと思わないか?
例外はあるとしても、せめて自分が持っている感覚で、他者も持っている感覚があるってことぐらいは考えようよ。それよりもやっぱり自分の投稿や欲求が大切なのかな? それとも、そんな大したことじゃないとでも思っているのかな? そうだとしたら、そんなの悲しいし寂しいよ。
何でもかんでも投稿していると、悲しい思いや寂しい思い、嫌な思いをする人がいるってことぐらいは、心に留めておいて欲しいよね。
投稿する前に、5分でいいからスマホを置いて考えようよ。それをするだけで、今より悲しい思いや寂しい思い、嫌な思いをする人間は減ると思う。
知らない誰かや親しい誰かに、寂しい思いや悲しい思い、嫌な思いをさせている自分をどう思う? 寂しかったり悲しかったりするよりも、楽しかったりワクワクする感覚を増やそうよ。
そんなことを考えていたらSNSに投稿できないって? 今やろうとしているその投稿は、しなきゃダメかな? それをしなきゃ死ぬのかい?
死んでも使いきれないほどの金があるのに、それでもまだ人を騙して金を手に入れ、国民を苦しめる政治家や一部の富裕層。
人種や国籍や肌の色、男か女かそうではないか、歳上か歳下か、障がいがあるかないか等々……。語弊があるかもしれないが、そんな取るに足らない違いをほじくり返して突っついて、自分のほうが優れている、正しいと主張しなきゃダメなのかい? それをしなきゃ、あなたは死んでしまうのかい?
自分でも忘れてしまうような、ほんの少しの欲望を満足させるだけのために、苦痛を感じる他者がいるんだよ。
完璧にはできなくても、極力、できるだけ、考え、行動して、誰もが等しく感じられる嫌な思いは、少しでも減らしたほうがよくないか?
瞬間的な一時の感情だけで投稿して、嫌な気分になる人や死者まで出ている事実を考えない。
たかが2、30分の食事のために、感情も愛もあり、自分と同じように赤い血が流れているのに、監禁されて死にたくないと泣き叫んで必死に訴えているものが虐殺されているとは考えない。
少しぐらい考えてみたって、悪い人生にはならないよ。他者の悲しみや寂しさ、痛みや苦しみ、楽しさや喜びを少しも考えられない人間ばかりが生存する世の中なんて、クソ以下だろ。そんな世の中に適合したいのか?
考えるのを放棄しないでくれ。それって本当に必要か?
G.B.H.『NO SURVIVORS』(生存者なし)
この憎しみのゲームに生き残りはいない
私たちの理想は迫撃砲によって変えられ、金を払わない人間はいない
生存者なし、バブル崩壊
生存者はいない、面倒が多すぎる
生存者なし、あなたはただの駒
生存者はいない、適合するな
ライバルが沸騰している間、少年たちは数週間で大人になる
時が来た、“本当の” 臆病者たちよ、我々は皆、この労苦に苦しんでいるのだ
国旗を身につけた愛国者たちよ、入隊して共に死のう。
私は家に留まり、私の世界を守り、2年やって白い羽根をつける
フランスの野原は英雄でいっぱいだ、今はポピーだけが残っている
その色は赤く、その数は多く、その目的はいまだ達成されていない
※翻訳はDeepLにて。間違いがあったら指摘していただけると助かります。
NO SURVIVORS
No survivors in this game of hate, we all get changed in a certain way
Our ideals changed by mortar, there isn't a person who doesn't pay
No survivors, burst the bubble
No survivors, too much trouble
No survivors, your just a pawn
No survivors, don't conform
Boys mature to men in weeks, while rivals stay on the boil
The time is right, the 'real' cowards, we all suffer at this toil
So patriots who wear your flag, can enlist and die together
I'll stay at home, protect MY world, do two years and wear a white feather
The fields in France are full of heroes, now only poppies remain
Their colour red, their number many, and still not achieved their aim
◉G.B.H.(Grievous Bodily Harm=重傷害の意)は1979年結成、ディスチャージらと並ぶイギリスのハードコアパンク界の重鎮。結成当初はセックス・ピストルズの影響下にあるパンクロックを演奏していたが、次第にブラック・サバスやモーターヘッドといったハード・ロックの影響も受け、ハードコアの志向を明確にする。「NO SURVIVORS」は1982年にClay Recordsからリリースした同タイトルのEPに収録。
【ISHIYA プロフィール】ジャパニーズ・ハードコアパンク・バンド、DEATH SIDE / FORWARDのボーカリスト。35年以上のバンド活動歴と、10代から社会をドロップアウトした視点での執筆を行なうフリーライター。