Text by ISHIYA(FORWARD / DEATH SIDE)
まずは見ないようにして誤魔化している、自分の罪悪感に向き合ってみないか?
人間には罪悪感がついてまわる。たとえば自分の体型が気に入らず、なんとか理想の体型にしたいとは思うが、トレーニングをせずに自堕落な生活をしてしまったり、太るとわかっていてもやめられない食べ物を食べてしまうほかにも、今日やらなきゃいけない締め切りの迫った仕事を明日に回してしまうなど、わかっていてもやってしまい、罪悪感にとらわれる。
この程度のものであれば、全ては自分に降りかかるだけなので大した問題ではないと思う。決して俺のことではないと自分に言い聞かせているわけではない。たぶん。
それよりも個人的にもっと罪悪感を感じてしまうのは、駅などのエレベーターのない階段で、降りられずに困っている車椅子の方や、大きな荷物を抱えた女性やお年寄り、ひとりでベビーカーのお母さんなどを、急いでいるからと見過ごしてしまったり、電車で座っているときにスマホをいじっていて、近くで立っているお年寄りに気づかずに座り続けていたときや、お年寄りや体の不自由な人、妊婦さんやベビーカーを差し置いてエレベーターを使っている、健康そうでどう見ても歩ける人間を見過ごしてしまうときなどである。
ほかにも白い杖をついて歩いている目の不自由な方に声をかけなかったりなど、日常で外出している際に出くわす場面で、後から気づいて罪悪感を感じてしまうことがある。
車椅子の方や白い杖の目の不自由な方に関しては、困っていそうな場面を見かければ極力声をかけるようにしているが、ベビーカーのお母さんを見過ごしてしまったり、電車で座っていてスマホを見ていて座席を譲れなかった場面は今でも何度かあって、エレベーターに関しては、揉め事にもなりかねないと思ってしまい見過ごすときもあり、そのたびに罪悪感に苛まれてしまう。
この場合の罪悪感は自分ひとりだけの問題ではなく、困っている人が存在するのでなかなか罪悪感が抜けない。対処法としては、いくら忙しくて急いでいようが、見かけたら必ず声をかけるようにすれば解決できる問題だと思うので、個人的にもそうするように極力心がけている。そうしているうちに、見過ごした後にすぐ気づいた際には、引き返して声をかけることも多くなった。まぁこんなモヒカンで眉毛のない男に声をかけられれば、びっくりしてしまうかもしれないが。
自分の罪悪感に向き合えれば、自ら修正していけるのが人間だが、罪悪感を他人に指摘されると反発してしまうことが多いのも人間だ。図星を突かれて怒るというやつだ。
そこで素直に指摘を受け入れて気づける人間であればいいのだが、とっさに反発してしまい、自らの過ちを見つめるのではなく「自分は悪くない」と頑なに反発してしまう場合も多いだろう。まぁ俺も、そういう場合はかなり多いのだが。
言われ方もあるとは思うが、自らの罪悪感に向き合わない自分の責任で、どこかに被害が起きている事実を認めたくないために、怒ったり反発するのだと思う。ひとり自分だけで冷静に罪悪感に向き合えれば、ひとつひとつ解決できる問題がほとんどであると、個人的には感じている。
まぁしかし、そううまくはいかないのも人間で、自分が悪いと思わずやっていることが、実際はかなり酷いことだったという事実は誰にでもあるだろう。空いているからと優先席に座ったりするのもそのひとつだと思う。譲るために席を確保する場合を除いて。
指摘されて反発してしまうのはわかる。しかし自分のやっている事実が間違っていれば、いくら相手の指摘に怒ったところで、自分の罪悪感は消えない。ただ単に気持ちを誤魔化して本質を見ずに封印しているだけだ。
痛いところを突かれて、反発して怒るのはよくわかる。俺もそういうことはよくあるし、それによって頑なになってしまうことも多い。
しかしそんなことをしても、事実は何も変わらない。怒りで攻撃し、自分は悪くないと蓋をして見ないようにしても、事実はそこになくならずに存在している。
わかっているけど、どうしようもないのか? いや、もう少し理解すればどうにかできるはずだ。仕方ないと自分自身に言い訳しても、形を変え規模を変え、罪悪感はいつまでも心の中に存在し続ける。
自分で気づかなかったことを指摘された他者の言葉が、自分がやっている事実に対しての指摘だったとする。
その事実に対して自分は気づいていなかったのだが、指摘によって自分でも気づいてしまい、自分を守るために頑なに否定する。
しかし事実は事実として存在し、自分の都合の良い形には変化しない。自分の犯している事実を認識しているが、できない・やらない自分自身に感じる気持ちが罪悪感だと俺は思う。
間違った事実や嘘を言われない限り、罪悪感がなければ指摘されても頑なに否定して怒ることはないだろう。気にならないというやつだ。まぁ中には事実を捻じ曲げる人間もいるが、それは精神的な疾患などの場合もあるので、また別の話になるだろう。
罪悪感を受け入れられるのであれば、その問題は解決する。その場では怒りに支配されてしまうかもしれない。喧嘩になる場合もあるだろう。
しかし罪悪感が原因であると理解できるのであれば、時間はかかるかもしれないが、その問題は解決していくはずだ。
自分のせいだと思いたくないのはよくわかる。しかしどう考えても自分のせいである事実が、罪悪感となって重くのしかかる。他者に指摘されれば怒ってしまい、反発して思ってもいないような言い訳を口にしてしまったりもする。それで罪悪感が誤魔化せたとしても、事実は相変わらずいつまでもそこに存在している。
そして罪悪感は、自らの持つ欲望を優先させた結果、発生すると思っている。
同じことが今、この社会で現実に起きている。
権力者たちの体のいい欲望が優先され、権利を蔑ろにする欲望が今の社会には蔓延し、弱いものたちが実害を被っている。弱者は強者や権力者たちの財産や持ち物ではない。個々が他者から、不当に苦しまされたり痛みを与えられたりせずに生きる権利がある。
弱ければ弱いほど被害者となってしまう社会が、まっとうな社会と言えるのだろうか。弱いものが弱いままでも、何の被害も受けない権利はないのか?
弱者は強者の欲望や都合によって発生する苦しみや痛みを感じなければ、生きていけない社会なのか?
罪悪感を感じない人間がこの国を支配し、何の罪もないものたちの生活や生命を脅かし奪っている現実が、目の前で毎日繰り返されているではないか。それにも目を瞑り、蓋をして隠して見ないようにすれば、弱者は痛みや苦しみを感じないのか?
おかしなものをおかしいと言い、変えたいと思うならば、まずは自らの罪悪感に向き合ってみないか? 自らの欲望を優先させた事実が、鏡のように縮図として社会に現れているんだ。
自分がもし、個人の欲望や都合で弱いものを見捨てているならば、権力者たちが自分の欲望や都合のみであなたを見捨てている社会になっていて当たり前じゃないのか? この社会をつくっているのは、ひとりひとりのこの世界に生きる人間なのだから。
さてそれじゃあ一体、何ができるのだろう? まずは見ないようにして誤魔化している、自分の罪悪感に向き合ってみないか?
自分で自分の罪悪感に正面から向き合って、罪悪感を認め、きっちりと解決すれば、自分より弱いものたちの痛みや苦しみが軽減し、生命が助かることさえある。
この思いが理解できるならば、自らと同じように痛みや苦しみを感じるものへ向けてみてはいかがだろう?
痛みや苦しみを感じる心があるならば、罪悪感に向き合って行動してみるのは、そんなに悪い人生じゃないと思うのだが。
そうすれば、今よりも優しさや思いやりが満ちた世界になり、自分の痛みや苦しみ、罪悪感が軽減されていくだろう。痛みや苦しみ、罪悪感に苛まれるのが好きで、それを望むのならば別であるが。
自らの欲望を優先させて、弱いものたちの痛みや苦しみを見て見ないふりをするのは過ちである。その過ちが罪悪感を生む。罪悪感をなくせ。
自戒を込めて。自分自身を見つめろ。
URIAH HEEP『LOOK AT YOURSELF(自分自身を見つめろ)』
俺は走っているお前を見ている
何から逃げているんだ?
誰も来やしないが
なにをやらかしたんだ?
振り返って戻ってきな
自分自身を見つめてみろよ
怖がることはない
自分自身を見つめてみるんだ
もし助けが必要で
必要なのは愛だけならば
隠れても意味がない
何を恐れているんだ? 俺に教えてくれ
お前には友達がいる
自分自身を見つめてみろ
怖がることはない
自分自身を見つめてみるんだ
振り返って戻ってきな
自分自身を見つめてみろよ
怖がることはない
自分自身を見つめてみるんだ
◉ユーライア・ヒープはイギリスのハードロックの草創期から活動するグループの一つで、1969年結成。デイヴィッド・バイロンの個性的な高音ボイス、ケン・ヘンズレー(key)とミック・ボックス(g)の叙情的プレイを看板とするドラマティックな音楽性で人気を獲得。1971年発売の3rdアルバム『ルック・アット・ユアセルフ(邦題:対自核)』は、4作目『デーモンズ・アンド・ウィザーズ(邦題:悪魔と魔法使い)』に並ぶバンドを代表する作品。
【ISHIYA プロフィール】ジャパニーズ・ハードコアパンク・バンド、DEATH SIDE / FORWARDのボーカリスト。35年以上のバンド活動歴と、10代から社会をドロップアウトした視点での執筆を行なうフリーライター。