1974年のデビューから今年で50周年。これを記念したツアーに加え、ライブアルバム『ライブ1989 未発表発掘音源集』、新譜『イカを買いに行く』の2枚のCDをリリースするなど、74歳にして精力的に活動を続ける友川カズキ。12月6日には「友川カズキデビュー50周年コンサート『一人ぼっちは絵描きになる』」が新宿ロフトで開催される。
どの時代においても世代を越えたファンを魅了し続けて50年......友川カズキ本人は自嘲交じりに、「売れたためしがない」と言葉にするが、静かにずっと友川カズキのブームが続いているとも言えるだろう。
時世におもねることもなく長い年月歌い続ける友川は、なぜ変わらずにいられたのか。〈怒り〉をモチベーションに表現を続けているという彼の目には、今のこの世の中がどう見えているのか。(Interview:久保奈々子 / Photo:Shigeo Jones Kikuchi)
喧嘩で始まったロフトとの縁
──友川さんは現在デビュー50周年のツアーの最中ですよね。新宿ロフトは今年移転25周年、2026年には小滝橋でのオープンから50周年を迎えるんです。
友川:そうなんですか。西荻のロフトは?
──1973年オープンです。
友川:わたしは、あそこからやらせてもらったんです。
──友川さんがロフト初出演をされた西荻窪ロフトがオープンした当時は、まだ東京にライブハウスがなかったと聞きました。自伝『友川カズキ独白録 生きてるって言ってみろ』にデビュー当時(1974年)は歌う場所がけっこうあったと書いてありましたが、まだライブハウスが少なかった時期ですよね。どんな場所で歌っていたんですか?
友川:曼荼羅が浦和にあって、その後、吉祥寺に移ったんです(1971年に浦和で創業。1974年に吉祥寺へ移転)。そこへ出たり……あとはどこかな。わたしはアマチュアみたいなもので、そういう人たちが出るイベントがあちこちであったんです。主催者もプロじゃなくてね。
──それこそ、飲食店とかの一角とか?
友川:それもありましたね。喫茶店で演奏したりね。ずっと歌っていたのは日野市にあったNADAっていう喫茶店。オーナーの奥さんが『チェ・ゲバラ 情熱の人生』っていう写真集の文章を訳したレナーテ・ヘロルドさんというドイツ人の方でね。むしろ当時はいろんな演奏場所があったんですよ。ライブハウスができていったのは、その後じゃないかな。それこそ、ロフトの平野(悠)さんとか曼荼羅の渡部(洪)さんとかが作っていったんでしょう。ライブチャージなんて言葉もそのあたりの時期から出てきたんじゃないですか。
──2013年のルーフトップのインタビューで、西荻ロフトに出演した時にお客さん、店員と喧嘩されたとおっしゃっていましたよね。
友川:あそこは20~30人入ると満員みたいな狭い店だったでしょう。客も少なかったし、演奏中にステージの目の前にある厨房で焼きそばを炒め出してさ。うるさくてイライラして喧嘩になったの。あの時に折られた鼻がいまだに曲がってるんです。いいんだけどね、お互い様だから。
──その時もお酒を?
友川:もちろん。ずっと酒乱だったからね。その頃は朝から飲んでたし、いつも酔っぱらってたから。今は、そんなことしませんけど。
──その後しばらくロフトに出ることは?
友川:なかったです。『新譜ジャーナル』っていう音楽雑誌があって、平野さんと曼荼羅の渡部社長の対談で「友川だけは二度と出さない」って平野さんが言っていたのが活字にもなってますよ。最近は会うと、ハグするようになったけど(笑)。2000年代に大久保通りにあったロフト(ネイキッド)に1回出ました。
──じゃあ西荻ロフト出演後は2000年代まで開いているんですね。その後は、どんどん別のところでやられるようになっていったんですか?
友川:ぽつぽつですよ。ぜんぜん忙しくなかったから。ギャグでしゃべってるけど、1月か2月に2~3本コンサートやったら、その年の仕事納めとか(笑)。最近は周りが一所懸命やってくれて、いろいろコンサートがあるけれど。ずっといろんな仕事をしながらやってきたんですよ。ほとんど土方ですけどね。
「歌でも歌わないとやってられない」
──『ルポ川崎』に収録されているインタビューでは、デビュー前から住まれている川崎についてお話されていましたが、この本で最後におっしゃっていた「歌でも歌わないとやっていられないですよ」という言葉がすごく印象的だったんです。
友川:あれは最後にドヤ街に飲みに行ってしゃべったんじゃないかな。安い飲み屋で、周りはみんなドヤの仕事の人だったからそんな言葉が出てきたのかな。でも、「歌でも歌わないとやってられない」っていうのは、今、とくにそう思う。この間も、本当に全員落ちてほしかったもん。
──衆院選ですか?
友川:そう。落ちてほしい人の3割くらいは落ちてくれたんだけど。
──裏金問題が騒がれてましたしね。
友川:それだけじゃなくて、もう政治家という存在がダメだよね。なんにもしなくて年間5000万くらい入るんだもん。どこの世界にそういう職業がありますか? 自分らの給料を自分らで決めるんだから。それは間違っているでしょう。しかも、あの人たちが人々の時給まで決めるんだから。
──確かに、国会議員が最低賃金を決めていますね。
友川:なんにも困っていない人たちが、時給50円ポッチを上げるのを決めたりしてるんだよ。バカみたいだよね。
──よく、怒りが歌のモチベーションになっているとおっしゃっていますよね。
友川:そうそう。怒りが一番大事。わたしにできることは、怒りを歌にすることだけだから。
──これまでの曲からもいろんな意味で「怒り」が伝わってきたんですが、今回の新譜が『イカを買いに行く』だったので、もっと楽しい曲というか、牧歌的な曲を想像していたんです。
友川:楽しい曲でしょう(笑)。
──今作もわりと怒っていたのでやっぱりと思って(笑)。ずっと怒りを持続されているのもすごいなと思ったんです。
友川:いやいや、政治を見ていれば簡単だよ。変な言い方だけど、怒りでワクワクしてる。まだまだやる価値があるな、と。平和になったらわたしの歌なんて一切通用しないんだから。今も通用してないんだけどさ(笑)。みんな頭にきてるしょう?
──社会に対して怒りがなかった時期というか、この時はよかったと思えた時代はあるんですか?
友川:ないね。それはわたしが一回も売れてないからだよ。ヒットがないから。ずっと不発のまま50年。
──私はヒットしていると思いますけど、とはいえ「ヒットがないから怒りがある」っていうわけではないですよね?
友川:それとは関係ないね。才能がないだけの話ですから。売れている人には何かしらあるのよ。
──それって友川さんは何だと思いますか? 売れている人にある何かというのは。
友川:わからない。それがわかったらわたしだって売れていますよ。
──自らそっち側へ行かないように見えます。
友川:いやいや。「よし、いい歌を作ろう」と思っても売れない方向へいっちゃうのよ(笑)。思惑通りにいかないもんだね。
お金で踊ったことは一回もない
──友川さんが活動されてきた50年、世の中の動きで言えば、高度経済成長があって、バブルがあって、お金に踊らされているような人たちも周りにはいたと思うんです。
友川:周りはね。わたしはお金で踊ったことなんか一回もないよ。踊りたくても踊れないんだよ(笑)。競輪で大勝したときくらいかな。それは2~3回あるよね。マサイ族みたいに、宙に浮いた時あったもん。地面から足が離れる瞬間がありますよ。
──これだけ世の中がいろいろなことが起こってきた中で、友川さんはなぜ変わらずそのままでいられたんですか?
友川:資質がそうなんだね。50歳くらいから生理で生きてるの。感性とか感覚じゃなくて、生理。生理というのは、好き嫌いだね。2枚の絵を比べて見ると、どっちの絵が好きかすぐ言えるじゃないですか。なぜかは後で考えるでしょう。理屈は後から。その感覚ですよ。
──11月7日に「【晩秋の夢雫】~友川カズキデビュー50周年大リクエスト大会~」という公演をされていますが、曲のリクエストを募集すること自体、少し意外でした。
友川:ぜんぜんそんなことないですよ。リクエストがあった曲を全部やるわけじゃないですから。事前にいくつか集まっていて大関くん(マネージャー)から見せてもらったけど、マニアックな人がいるんですよ。
──リクエストって言われると、あえてほかの人が書かない曲を書きたくなるかもしれません。ところで、ファンの方々って友川さんに何を求めてライブに来ているんだと思いますか?
友川:自分よりも下の人間を見たいんだよ。人間、下には下がいるんだって。それを見て、明日からの英気を養ってる(笑)。
──そんなことないと思いますが(笑)。個人的には、イライラした時にヒーリング系の音楽を聴いても収まらなくて、友川さんの曲を聴いて浄化されたことがありました。
友川:それは間違いです。より不浄なものになりますよ(笑)。
──ただ、イライラは収まったのですが、エンドレスでかけたまま寝たら悪夢を見ました(笑)。
友川:そうでしょう(笑)。地獄だよ。ちょうど先日北海道へライブに行っていて、知人の彫り師と会ったんだけど、その彫り師に彫られた人とも飲んだことがあるの。彼に彫ってもらう時、ずっとわたしの音楽をかけてたらしくて、「その時間は二重苦でした」って(笑)。彫られて痛いさなかで『死にぞこないの唄』とかね。なんでそんな音楽かけるんだよって。
──癒し音楽よりもいいかもしれないです(笑)。