【コラム】COALTAR OF THE DEEPERSとBorisの「クロスオーバー」性、国内外で築き上げてきた地下水脈的なネットワーク
COALTAR OF THE DEEPERS(以下COTD)とBorisは、いずれもこの世界の音楽シーンで非常に重要な存在感を示してきたバンドだ。メジャーとマイナーの狭間を漂うような活動形態のために“知る人ぞ知る”ポジションにはまってしまっている感もあるが、ともに30年を超えるキャリアのなかでジャンル越境的な交流を繰り返し、地下水脈的なネットワークを築き続けてきた。
こうした活動が今まで十分に評価されてこなかったのは、いずれのバンドも音楽性が豊かすぎることに加え、周囲のシーンとの繋がり方を把握するのが容易でないのも大きいように思われる。楽曲ごとにスタイルが変わる音楽性は一つのジャンルに括ることができず、既存メディアの棚割り棲み分け的な語り方と相性が悪い。また、Borisの優れたDIY姿勢(ロックの歴史全体を見ても屈指のものだろう)や、NARASAKIが他アーティストへの楽曲提供を繰り返し、COTDとは別のところで唯一無二の実績を重ねてきたことが、両バンドのイメージを掴みどころのないものにして、何か一つのシーンと関連付けて語るのを難しくしてきたというのもあるだろう。
今回の対談では、そうした両バンドの音楽的な在り方が、「クロスオーバー」「アンビエント」というキーワードを通して具体的に述べられている。特に「クロスオーバー」は示唆的で、個人的にはものすごく腑に落ちるものだった。80年代中頃に発生したクロスオーバースラッシュは、ハードコアパンクとスラッシュメタルが交差した時代のドキュメントみたいに語って済まされることが多いが、音楽形式だけでなく精神性も後の世代に受け継がれ、90年代初頭の混沌とした豊かさに繋がっていった。
VIOLENT ATTITUDE主催のDOOMはその最たるものだし、DEAD ENDやGASTUNK、トランスレコード周辺のバンド(YBO2、Z.O.A、ASYLUMなど)といった、後のヴィジュアル系に大きな影響を与えた存在も同様だ。また、Morbid Angelのような初期デスメタルや、Napalm Death人脈をはじめとしたEaracheレーベル周辺など、グラインドコアを起点に様々なジャンルが生み出されていった流れについても同じことが言える。そしてこれは、MelvinsやEarthのようなグランジ周辺バンドや、そこから大きな影響を受けたドゥーム/ストーナー/スラッジ、パワーヴァイオレンスの領域にも当てはまる。こうした動きが同時進行的に立ち上がった90年前後の音楽シーンは、ジャンル黎明期ならではの未分化な豊かさに満ちていて、70年代前半のプログレッシヴロックや80年前後のポストパンクにも通ずる“1バンド1ジャンル”的な面白さ、得体の知れない魅力があった。
このようなクロスオーバー精神はCOTDやBorisのようなバンドにも確かに受け継がれているし、NARASAKIが好んで聴いているというVildhjarta(ジェント/プログレッシヴメタルコア)やStrawberry Hospital(2020年代的な意味でのサイバーグラインド、所謂ハイパーポップ以降の音)を同様の観点から読み解くこともできるだろう。今回の対談は、スプリットアルバム『hello there』の解題としても、以上のような音楽シーンの連なりを示すものとしても、とても意義深いものになったと思う。
以上のジャンル越境的な(または、溶解的な)豊かさをより広い領域に結びつけた重要作として、大槻ケンヂと絶望少女達が2008年に発表したアルバム『かくれんぼか 鬼ごっこよ』についても触れておきたい。TVアニメ版『さよなら絶望先生』でタイアップされた楽曲のアレンジ版と新規オリジナル曲からなり、同作に出演した声優陣も参加した本作では、全ての曲をNARASAKIが作曲・編曲し、大槻ケンヂもメインボーカルと大部分の作詞を担当している。この2人が所属する特撮のメンバーである三柴理が半数の曲でピアノを披露、COTDや特撮のライブサポートでも知られる村井研次郎(cali≠gari)も全曲でベースを弾いている本作は、COTDや特撮をエクストリームメタル方面に寄せたような凄まじいサウンドになっている。
例えば、序曲の「Intro」はスラッジ〜デスドゥーム的な激重リフで幕を開け、その後景ではMorbid Angelに通ずるリードギターが咽び泣く。アニメ版の主題歌になった「空想ルンバ」は、KOЯNにSlayerのリフを載せたような導入部からマスロック的なミニマルフレーズを経てエモ風のサビに至る流れが素晴らしい。叙情ハードコア風のリフから始まる「絶望遊戯」は、中間の5拍子フレーズの絡みが80年代のKing Crimsonを想起させる一方で、後のMaison book girl(2010年代後半のプログレッシヴなアイドルポップを代表するグループ)を完全に先取りする音になっている。また、「ヒキツリピカソ・ギリギリピエロ」の中盤にさりげなく仕込まれた後期Kyuss的なアンサンブルは、イントロのSlipknot風の展開に絶妙に異なるニュアンスを加えている。
こうしたサウンドがメジャーのなかでギリギリの際を攻めるサブカル的な立ち位置から繰り出され、マキシマム ザ ホルモンやDIR EN GREYがJ-POP領域で押し上げてきた“許容されうるヘヴィさの水準”をさらに高めたことは、以降の日本の音楽シーン全体に極めて大きな影響を与えている。これは、2010年代以降のプログレッシヴなアイドルポップを先導したももいろクローバーZ(NARASAKIが数々の名曲を提供)についても言えることで、そのももクロと特撮が所属するEVIL LINEレーベル(この名前自体がCOTDの曲名から来ている)は、上記のようなクロスオーバー精神に満ちた作品をリリースし続けている。こういうふうに俯瞰してみると、地上と地下が実はしっかり繋がっている日本の音楽シーンにおいて、COTDが重要な役割を果たしてきたことが見えやすくなるのではないだろうか。
これに対し、国外での活動がメインの(「ドルで生活している」という発言もある)Borisは国内での活躍はそこまででもないようにも見えるが、アンダーグラウンドなところで国外と国内を接続する活動を続け、COTDとは別の形で重要な影響をもたらしてきた。Pitchforkで『Pink』(2005年)が非常に高く評価され、トム・ヨーク(Radiohead、The Smile)がBorisにハマっていると発言するなど、Borisの人気はむしろメタルの外、日本の外でのほうが大きい。そうした立場から、Merzbow、灰野敬二、Sunn O)))、イアン・アストベリー(The Cult)、ENDON、GOTH-TRAD、Uniform、Z.O.A、THE NOVEMBERSといった国内外のアーティストとのコラボレーションを重ねてきたBorisは、“外”のリスナーにメタルや日本の音楽を知らしめる窓口になっている。清春や明日の叙景との海外ツアーもその好例だろう。
膨大なディスコグラフィと幅広すぎる音楽性が語りづらいイメージを生んでしまっている面もあるが、そうした実績があるからこそ地域や音楽ジャンルをまたいだ交流を実現でき、接点がないように見える複数の領域を自然に繋ぐこともできる。こうした存在感の有り難さは、「洋楽」とか「邦楽」みたいな切り分けを超えたところから俯瞰することで初めて見えてくるのではないかと思う。
以上、COALTAR OF THE DEEPERSとBorisの「クロスオーバー」性と、両バンドが国内外で築き上げたネットワークについて触れてきた。いずれもどれか一つのジャンル/シーンで語ることは不可能なバンドだが、それだからこその広がりや面白さにも満ちている。そうした得難い持ち味が、今回の対談やこのコラムを通して知られるようになれば幸いだ。(Text:和田信一郎)