激情と哀切を織り交ぜた鮮烈なリズム&ビートに十代特有の苦悩や葛藤を叙情的に描く歌を乗せた瑞々しい楽曲、徒手空拳で聴き手と対峙すべく身を切るように魅せるライブ・パフォーマンスで絶大な支持を得たセツナブルースターが、前身バンドである上海PIZZAの結成から数えて25周年を記念した特別なライブ『紺青』を来たる11月5日(日)に新宿ロフトで行なう。2017年の暮れに実現した事実上の復活ライブ以降、地元・長野では何度かライブを行なってきたが、東京でのライブは6年振り。今回のライブ以降のバンド活動が単発的なものではなく、持続性を感じさせるものであるのは、実に17年振りとなる新録音源『エバーグリーン』が10月5日(木)にリリースされること、このインタビューでの倉島大輔(ボーカル&ギター)のバンド再始動に懸ける揺るぎない意志を読み取ればわかるだろう。そしてこの『エバーグリーン』という楽曲の尋常ならざるクオリティの高さ、セツナブルースターの音楽性やバンドの在り方を象徴したような"エバーグリーン"という言葉をタイトルにして楽曲の主題に選んだことからもメンバーの本気と真摯な思いが窺える。6年前のキセキの復活劇以降、今回の『紺青』開催に至るまでの経緯、『エバーグリーン』の楽曲制作秘話、バンドの今後に至るまでを倉島に聞いた本稿を読めば、あなたもきっと実感するはずだ。"一瞬の碧星"が今まさに"常緑"の存在にならんとしていることを。(Interview:椎名宗之 / Photo:山﨑穂高)
コロナ禍がバンド再始動の一因でもあった
写真:山﨑穂高
──倉島さんは現在、故郷である長野在住なんですよね。
倉島:はい。2013年に戻ってきたので、ちょうど10年になります。
──家業を継ぐために戻ったと、『キセキ』の15周年記念インタビューでお話しされていましたが。
倉島:そうですね。自分は長男ですし、両親が高齢なこともあり、いずれは手伝わなければと思っていたんです。それで31歳のときに節目と考えて、実家へ戻ることにしました。
──故郷で再び生活することが自身の表現活動や創作意欲にフィードバックすることはありますか。
倉島:バンドを休止して以降もソロで弾き語りを続けてきたんですけど、東京でアルバイトをしていた頃とは仕事をする上で物事の見方や他者との接し方が変わってきましたし、新たに勉強させてもらった部分もあるし、その中で出来てくる楽曲はやはり多少変化があったように感じます。
──以前暮らしていた東京は、今はどんなふうに見えますか。
倉島:僕が住んでいたのは杉並区で、わりと閑静な住宅街だったんです。その当時、遊んだりライブを観に行くのは下北沢や吉祥寺が多くて、歓楽街である新宿や渋谷はライブ以外であまり行くことがなくて。ただ、このあいだ渋谷で弾き語りのライブがあったんですけど、あまりの街の変貌ぶりにびっくりしました。下北沢も、駅を出たらどこがどこだか全然わからないほど変わりましたよね。東京はやっぱり変化のスピードが早いなと実感しました。でも、東京はいまだに好きですよ。凄くエネルギッシュだし、刺激をもらえるし。
──2017年12月に赤坂マイナビBLITZで行なわれたライブは別として、セツナブルースターは2018年、2021年、2022年といずれも地元・長野のロックフェス及びライブハウスでのイベントに出演してきましたが、これは一貫して地元愛の賜物と言うか、東京ではなく長野でライブをやることに重きを置いてきたわけですよね?
倉島:意図してそうしたわけでもないんです。今はメンバー全員の活動拠点が長野ではないので、バンドでライブを行なうにもいろいろと準備が必要となるんです。3人でリハーサルをするにも楽曲制作するにも時間や予算がそれなりにかかってしまうし、その折り合いをなかなかつけづらくて。コロナ禍以降に長野でセツナブルースターのライブをやったのは、25年来お世話になっている地元のオーガナイザーからの一声があったからですね。ライブハウス存続のチャリティという側面もあったし、僕らもオファーを断る理由がありませんでした。今にして思えば良いタイミングでケツを叩いていただいたと言うか、お陰様でライブもソールドアウトできて評判が良かったし、お客さんにも凄く喜んでもらえたので、ここまでお膳立てしてもらったのなら、今後は外部的に担いでもらってステージに上がるのではなく自主的にバンドをやっていくべきじゃないかと思うようになったんです。
▲2018年、『OTOSATA ROCK FESTIVAL』出演時
──ということは、セツナブルースターの本格的再始動はコロナ禍がその一因でもあったと言えますか。
倉島:結果的にそうなりますね。2017年12月に赤坂マイナビBLITZでやったときは厳密にはセツナブルースター名義のライブではなく、僕のソロ名義でのステージだったんですけど、最後に7曲、セツナブルースターとして演奏させてもらって……あのときの会場の空気感、来場してくれた人たちの期待感の圧が凄くて(笑)、でもそうした環境でステージに立てることがとても幸せだなと実感したんです。その時点でまたバンドをちゃんとやりたいとは考えていたんですけど。
──その思いは、ベースの島田(賢司)さんもドラムスの宮下(裕報)さんも同じだったんですか。
倉島:同じでしたね。メンバーはみんな実家がこっちなので、毎年正月になると帰省して3人で会っていたんですよ。バンドが動いてなかったときもずっと交流は続いていて、会うたびに赤坂でのライブや地元でやったフェスの話が出つつ、「またバンドをやりたいよね」という話をしていました。レコーディングしてない楽曲もまだたくさんあるし、いつか必ず発表したいとも話していたし。その“いつか”がいつになるのかという話を続けていたところにコロナ禍になってしまって、その後、地元のライブハウスのチャリティ・ライブに出ることになって。話が本格的に動いたのはそれからですね。一度バンドとして動いたんだからやろうよ、落とし所をつけようよ、自分たちの中でちゃんと納得してやろうよ、って。その気持ちは3人とも一緒でした。
──3人が次の段階へ向かうために活動休止を決断したと、倉島さんが2008年当時のブログで書いていましたが、2017年にセツナブルースターとしてステージに立ったときは各人の成長や前向きな変化を実感できましたか。
倉島:感じましたね。20代半ばまでずっと一緒に音を鳴らし続けていたし、それまでも良いアンサンブルを奏でていたと思うんですけど、約10年ぶりに一緒にやってみてもまるで劣化していなかったと言うか。お互い年齢を重ねてもどっしり腹の据わった演奏ができたし、自分たちで演奏していても説得力を感じることができたし、それが楽しかったです。そこで劣化を感じていたら、「もう昔みたいに演奏できないんだな」とへこんでいただろうけど、やってみたらそうじゃなかったので。
写真:山﨑穂高
──宮下さんはTHE NAMPA BOYSのサポート・ドラマーとしても活躍されていましたが、島田さんもベースを弾き続けていたんですか。
倉島:島田はたまにこっちの飲食店でジャズ・バンドのセッションとかをやっていたそうです。宮下はドラマーとしてずっと走り続けているので、久しぶりに一緒にステージに立ったときもさすがの安定感でした。
──倉島さんがそれまでのソロ活動で培ったものが今のセツナブルースターに反映されている部分もあるのでは?
倉島:ありますね。ずっと唄い続けてきたし、唄うことを怠らなかったことは良かったと思っています。
──セツナブルースターを休止して、違うバンドをやってみようとは思いませんでしたか。
倉島:その選択肢はなかったです。名前を変えて違うバンドをやるだけの体力ももう残ってなかったですし、活動休止前夜はとにかく疲弊していましたから。