デビュー前後はロフトがすべての基準だった
──シーナさんもそうやってただのリスナーでいるよりも自分で唄うようになったんですよね。
鮎川:そう。まさに「アタシが唄うちゃろか」よね。それまでボーカルもバンドもやったことなかったし、一緒にバンドをやろうなんちゅうことは夢にも思ってなかったけど。実家にいたシーナが北九州から東京のスタジオについてきて、そのとき唄ってた女性シンガーを見て「アタシのほうが上手いみたい」と言い出して。そのままシーナが唄うことになった。
──ロフトで鮎川誠&ミラクルメンのボーカルとして人前で唄ったのがシーナさんにとって最初のライブ体験だったわけですよね?
鮎川:うん、ステージに立ったのはロフトが最初。
──しかも、シーナさんが1番のうちに全部の歌詞を唄ってしまって、2番以降がインストになった曲もあったとか(笑)。
鮎川:そんなとっ散らかったこともあったね。2番、3番がなくなったので「インスト!」とか言うて(笑)。
──お客さんが3人しかいないライブもロフトではやったそうですね。
鮎川:それは1978年12月(9日)にやった荻窪ロフト。寒くて雨は降りよるし、シーナは夏のサンダル履いたまま荻窪商店街をびしょ濡れで歩く羽目になったりね。その日は僕とシーナしか東京でのレコーディングに残ってなくて、川嶋と浅田は先に福岡に帰ってたから「ホントにライブやるの?」ちゅうて。で、柏木のコネで鈴木“ウータン”正夫ちゅう当時引っ張りだこやったドラマーやら、凄いベースの名手やらトラのミュージシャンを急遽呼んでもらってね。3時間前くらいに集まって、曲を全部覚えてもらって。お互いの共通項であるカバーをやるちゅうよりも「トレイントレイン」とか「400円のロック」といった当時レコーディングしてた曲をメインにやった。しかも3人しかいないお客さんの中の2人は僕の友達だったので、実質的にお客さんは1人。それが僕らにとって初めての荻窪ロフト。
──こうしてあの時代を振り返ると、ロケッツにとってもロフトにとっても揺籃期だったのを感じますね。
鮎川:あの頃はロフトがすべての基準やった。ロフトに出てるバンド、ロフトのサウンドが自分たちの基準。当時僕らも同じような音楽が好きやったけど、つまりパンクやニュー・ウェイヴよね。でもその前に僕がやってたサンハウスはブルース・バンドやったし、ロキシー・ミュージックやらデヴィッド・ボウイやらグラム・ロックの影響も受けたり、その後のニュー・ウェイヴやパンクの影響も受けた。当時のロフトはそのメッカやったよね。それは東京ロッカーズの人たちの功績が大きいと思うけど、僕らもそういう同じような音楽が好きな仲間に認められたいっち思いよった。
──ロケッツがロフトを牙城にし続けたことが、モッズやルースターズ、ロッカーズといった同郷の後進バンドに東京での活動の道筋を作ったようにも感じますが。
鮎川:そんなことはないけど、当時の東京にはロフトと屋根裏しかなかったもん。あの時代、ロフトと屋根裏がサンハウスやめんたんぴんみたいなバンドを出してくれとったけど、そういうバンドやらがもはやオールド・ウェイヴなイメージを持たれるくらい、それから数年のあいだにじゃがたらやら何やら新しいバンドがバンバン出てきよった。まさに時代の転換期やったね。
──同郷の後輩バンドが続々と上京してきたのを当時の鮎川さんはどう感じていたんですか。
鮎川:ルースターズは僕と同じ北九州出身で、サンハウス時代から知り合いやったし、もちろんロッカーズの陣内(孝則)も穴井(仁吉)も知り合いで、モッズに至っては浅田が森山(達也)と組んだバンドが前身やけんね。みんな街の知り合いやったし、それぞれ頑張ってバンドをやっとったし、僕はなんも先輩やからとか言うて後輩の面倒を見るとかそんなことはなかった。自分のことで精一杯やし、蹴落とそうなんちゃ思わんけれども(笑)、彼らを引き立てて道を作っちゃるみたいなことを考えたこともなかった。ただ一緒に盛り上がればいいなと思って、1979年に『真空パック』のレコーディングが終わった後、ルースターズとモッズとロッカーズに声かけて博多グリーンビレッジっちゅう所で『ROCKET'S PARTY』ちゅうイベントを僕が3デイズ企画して、それが大盛況やった。福岡の音楽ファンが新しい音楽、元気のいい音を出すバンドちゅうかパンクロックを待ち望んでた時代。80年代に入って彼らも上京して一気に花開いた印象があるね。
出番直前にその日やる曲を決めるのはコステロの教え
──ルースターズには柏木さんもプロデューサーとして関わっていたし、その流れもあって1982年の大晦日には新宿ロフトで花田(裕之)さんをギターに迎えてサンハウス時代のナンバーがプレイされることがあったじゃないですか。柴山(俊之)さん、鮎川さん、川嶋さん、花田さんという布陣で。それが翌年のサンハウス再結成(柴山、鮎川、奈良、浦田)にもつながりましたよね。
鮎川:ああ、あれが1982年か。
──そうです。鮎川さんのソロ・アルバム『クール・ソロ』のレコ発(1982年4月16日)をロフトでやっていただいた年ですね。
鮎川:その大晦日のサンハウスも最初は柴山さんを柏木がブッキングしただけの話で、花田たちがバンドでバックする話やったみたいなのが、柏木やったか柴山さんやったか忘れたけれど、ドラムとベースを川嶋と浅田に頼みたいちゅう話になってね。それやったら僕も出らんか? ってことになって、いいよっちなって。サンハウスの曲やったら全然昨日の続きでやれるから。ライブ自体はとても良かったし、刺激になった。デモンストレーションにもなったし、自分らのアピールにもなったしね。
──それと忘れちゃいけないのは、小滝橋通り沿いにあった新宿ロフトでの最後のライブはシーナ&ロケッツに飾っていただいたことですね(1999年3月16日)。翌日の旧ロフト最後の日がお客さんとバンドマンが一緒くたになったパーティーで、通常のライブブッキングの最後は他でもないロケッツだったという。
鮎川:ロフト最後の日ね。あれは僕らも出してもらってホントに嬉しかったし、テレビの取材が来て番組にもなったもんね。昔のロフトは人だかりができる眺めが凄い良かった。通常の入口とは別に楽屋の出入口があって、その裏のほうが関係者とかが固まってて逆に人が多いんよね。あそこへ行きよるとファンの人が話しかけてきて「北海道から来たんです」とか言われて、熱いロックの心が道まではみ出とった。当時、ロフトの向かいが大黒屋っちゅうメンズの洋服屋さんで、僕らはその大黒屋の入ったビルの共同トイレで着替えたりしてた。ロフトの楽屋は狭かったけんね。当時はライブができる場所なんてそんなもんやったし、みんな手作りで試行錯誤しとった。福岡もそうで、ライブをやれる場所がそもそもなかった。あの頃はまだ練習スタジオっちゅう概念もないし、そういうんが営業として成立するなんてまだ誰もアイディアがない時代。アンプとドラムが置いてある店があれば「ああ、ここでライブやれるん?」って感じで入り浸って、朝から練習させてもらってね。サンハウスは福岡の“ぱわあはうす”でずっとそんな感じやった。最初は普通の喫茶店やったけれど、店主と盛り上がってライブをやるようになってね。べタンとしたセメントの真四角な小屋にアンプを持ち込んで、そのうちそのアンプを置きっぱなしにして、店の鍵も預かるようになって午前中に練習する。昼の12時から営業やけ、朝の8時か9時に集まって3、4時間ずっと練習。ああいう店があるのがサンハウスには凄い有り難かった。
──いい話ですね。さて、ロケッツの44周年とロフトの45周年を記念した今回の『44回目のバースディLIVE』ですが、いつ以来か分からないほど久々のロフトでのワンマンですね。
鮎川:おそらく、アベフトシが遊びに来てくれたライブ以来やないかな。
──ああ、ありましたね。『ROKKET FACTORY ~The Worst and Rarities of Sheena & The Rokkets in Alfa Years~』のレコ発とロフト30周年を兼ねたライブが(2006年9月24日)。
鮎川:イベントでは『冬の魔物』(2019年12月22日)とかいろいろ出とるけどね。ロフトでのワンマンは久しぶりだから楽しみだし、今でもまだ元気に音が出てるぜっち、僕らがこれまでやってきた曲は良かろうが?! っち見せつけるライブにしたいね。今回はルーシーも唄ってくれるし、僕も奈良も川嶋も今はルーシーの一声で動いてる感じやから。彼女が「あれやって」とか言うと、そんな曲唄うてくれるん? ちうような感じで、僕ら3人から「あれ唄ったら?」とか言うたことは一度もない。そこはもうルーシーの心意気に感謝だね。
──セットリストは事前に用意せず、ライブの直前に決めるのがロケッツの流儀ですよね。
鮎川:セットリストを決めないのは、コステロの前座を経験して学んだことでね。6カ所一緒に回って、その一挙一動を観察してたんやけど格好いいことがいっぱいあった。コステロがトイレに行くとマネージャーの下のロードマネージャーがついてきて、ドアの前を覆い隠すわけ。今こん中にスターがいるっちゅう感じでね。そうやってコステロが凄い大物なんだっちゅうことをスタッフが一丸となって盛り上げようとしとるのが分かったし、日本へ来たこの1回のチャンスを逃さんぞっちゅう気迫みたいなもんがコステロからもスタッフからも伝わってきた。そういう中にコステロが本番直前にその日やる曲を鉛筆で書くのを同じ楽屋で見てね。そのときのインスピレーションで手書きするのを見て、ホントそうやね、予定調和ではロックはできんけねっち共感したし、そのコステロの仕草からロックに懸ける彼の思いが凄い伝わってきた。それ以降、僕らも本番ギリギリまで何をやるかは決めんでおこうってことにした。前の日にある程度決めとっても当日リハーサルしよったら他の曲をやりたくなったり、もっといいアイディアがひらめいたりしたらすぐ試したくなるしね。だから出番直前にその日やる曲を書くっちゅうのはコステロの教えなんよ。実を言うと今は照明の人やら音響の人やら全体の動きもあるけ、ある程度は考えるようになったけど、できればギリギリまで決めたくない。前持って考えたほうが逆に大変だからね。