1978年10月25日にシングル『涙のハイウェイ/恋はノーノーノー』でメジャーデビューし、同年11月23日[シーナ(vo)の誕生日]に行なった初ライブ以来、現在に至るまで40年以上にわたり現役のロックンロールバンドとしてノンストップで疾走し続けるシーナ&ロケッツ。まさに日本の至宝バンドと言うべき彼らが、結成44周年突入とシーナのバースディ、そしてデビュー前後のホームグラウンドだった新宿ロフトのオープン45周年を祝うアニバーサリーライブ『シーナ&ロケッツ 44回目のバースディLIVE』を結成日にあたる11月23日(火・祝)に開催する。ロケッツにとってもロフトにとっても大きな節目となるこの特別公演開催を前に、鮎川誠(vo, g)、奈良敏博(b)、川嶋一秀(ds)がロケッツ結成以前に在籍したサンハウス時代から縁深かったロフトとの貴重なエピソードを中心として、シーナと鮎川の愛娘・ルーシーがボーカルを務める現在のロケッツが今なおバンドを持続させる理由、飽くなき表現欲求と決して尽きることのないロックへの愛情について、バンドを牽引し続けるフロントマン・鮎川誠に余すところなく語ってもらった。(interview:椎名宗之+加藤梅造)
当時の仲間が“鮎川誠&ミラクルメン”と勝手に命名
鮎川:僕が新宿ロフトで初めてライブをやったのはサンハウスで、1977年の12月1日にやったはずだと昨日ふと思い出してね。
──過去のスケジュールを遡ると、1977年12月3日に新宿ロフトで『ドライブサンハウスライブ』と題したライブをやった記録が残っていますね。
鮎川:ああ、1日じゃなくて3日?
──はい。それ以前にもサンハウスは1976年の2月28日、4月25日、8月13日の3回にわたって荻窪ロフトでライブをしていたようです。
鮎川:僕らは1974年くらいからレコーディングやら何やらで東京へ行くようになって、こっちのエージェントが手伝ってくれて三ノ輪モンドとかでライブをやったね。新大久保の商店街にあった縦長のライブハウスでもやった気がする。荻窪ロフトもその流れでやりよったけど、「ここがあの荻窪ロフトか!」みたいな感じではなかった。1976年の8月にサンハウスでライブをやったときは、ジャケット撮影をしたマックス高橋(高橋昌嗣)さんというカメラマンのご夫妻が聴きに来たんやけど、スピーカーの前にいた奥さんがあまりの爆音で鼓膜に深刻なダメージを受けられてね。実際のライブよりもそんなエピソードのほうが覚えてる。
──3rdアルバム『ドライヴ・サンハウス』の発売日であり、解散を決定したと言われる1978年3月25日に新宿ロフトでサンハウスとして最後のライブをやっているんですよね。
鮎川:うーん、そうやったっけ? (資料を見ながら)1977年12月3日が最後のライブやった気がするな。こんときにそれまでのオリジナル・メンバーが抜けて、ドラムが川嶋(一秀)、ベースが浅田(孟)という後のロケッツのメンバーに変わったんやけど、1978年の3月25日はロフトに行ってないと思う。何かの間違い、幻かもね(笑)。1978、9年頃の新宿ロフトにはロケッツとしてよく出てたし、フリクションやミラーズが出ると聞けば覗きにも行ってたね。
──東京ロッカーズの面々とも交流があったんですね。
鮎川:アケトっちゅうバンドが昔あって、そのメンバーを通じて東京の友達がすぐできて、ミラーズのヒゴ(ヒロシ)君にアンプの貸し借りとかで世話になったりね。東京へ来て淡島通り沿いの代沢十字路の先にアパートを借りたので、フリクションが下北沢ロフトに出ると聞けば会いに行ったり、S-KENの田中(唯士)さんとも交流があった。
──シーナ&ロケッツとしては、1978年8月12日に“アユカワマコト(元サンハウス)+ミラクルマン”名義で新宿ロフトに初出演していますね。
鮎川:うん、覚えてるよ。サンハウスが解散して、僕たちは1978年の4月に初めて上京したんだけど、サンハウスのときからマネージャーやった柏木省三っちゅう男がいろいろと手伝ってくれた。最初はローリング・ストーンズがデビュー・シングルにしたチャック・ベリーの「COME ON」をリメイクしてレコーディングするアイディアがあるっちゅうことで、「COME ON」なら寝言でも唄えるぜってことですぐ録音してね。と同時に、僕が書いた博多時代の未発表作品、カセットで唄うとった曲を柏木が出版社に売り込んでくれたり。その流れで伊藤佳伊子さんという歌手のために「アイ・ラブ・サウロ」って曲を書き下ろした。サウロロフスっちゅう恐竜の骨をロシアの科学アカデミーから持ち込んでサウロ・ブームを起こそうって企画を柏木が見つけてきて、見え見えのキャンペーンソングをゴダイゴと一緒にレコーディングして。その録音の合間に「オマエガホシイ」や「ボニーとクライドのバラード」といった自分らの曲を作ってた。その年の4月、6月と二度東京へ行っちゃ帰りを繰り返して、8月にレコーディングするスケジュールでまた上京して。そのときにライブもやろうってことになった。それで柏木が勝手に付けたバンド名が鮎川誠&ミラクルメン(笑)。
──由来はおそらく、エルヴィス・コステロの「MIRACLE MAN」ですよね。
鮎川:そう、『MY AIM IS TRUE』に入っとる曲。僕らは何がミラクルメンか、そんな名前付けてないぜって感じでね。それでロックとシーナの本名である悦子を掛け合わせて、ロック+エツコ=ロケッツにした。鮎川のばあちゃんが“シナ”っちゅう名前やったり、ラモーンズの「SHEENA IS A PUNK ROCKER」って曲もあったし、自分たちではシーナ&ロケッツと呼んでもらいたいっちゅう思いがぼんやりあったけれども、僕らのアイディアをまだ柏木には伝えてなくてね。その前に柏木が先走ってブッキングした感じやね(笑)。
──新宿ロフトでの初ライブは確か、川嶋さんや浅田さんと一緒ではなかったんですよね?
鮎川:後にRCサクセションに入る新井田耕造(ds)、阿部まさし(g)、矢野ガン太(b)っちゅうミスタースリムカンパニーの面々を紹介されて、彼らと一緒にやった。エルボンレコードから出した『#1』に入れた「400円のロック」や「ブルースの気分」、「夢見るボロ人形」もそのときにやったね。まだ「LEMON TEA」はやってなかったかな。1枚目に入れた「LEMON TEA」以外の曲はだいたいその日にやった。