Chapter05:未発表アルバム『Polar Song』
──1984年にはアルバム『Polar Song』のレコーディングをしていながら、発表することなくお蔵入りしてしまったのは何か理由があるのでしょうか?
白石:録音だけで息が切れてしまったような記憶があります。
野本:資金不足だったかと思います。雪山でジャケット用の撮影まで行ったのですが…。
──今回の裏ジャケットに使用されているのは、そのときの写真でしたか!
白石:そうです。シンクロ号で雪山に行って撮りました。寒い極地のイメージを求めて雪山に向かいました。
野本:ちなみに『Polar Song』のレコーディングでは、芸大の学生さんに手伝ってもらって生バイオリンを入れていますね。よくシンクロを見に来ていた芸大の、女性に私がギターで作ったものをスコアに起こしてもらいました。このレコーディングはかなり頑張りました。
白石:スタジオに女性音大生を3人呼んでバイオリンとチェロのパートを録音しました。
──DISC-1から3までを通して聴くと、シンクロナイズがサウンドをどのように変化させていったが分かる内容になっていますね。野本さんはご自身のギターの音色や演奏タッチを変化させていくうえで触発されたバンドやギタリストはいますか?
野本:小中学校時代に聴いていたプログレに影響を受けているのは間違いありません。ピンク・フロイド、イエス、マイク・オールドフィールドが好きでした。日本ではコスモス・ファクトリー、四人囃子、喜多嶋修、クロニクルなんかが好きでしたね。高校時代には、意識的にロックではない音楽もよく聴いていました。現代音楽や民族音楽なんかもよく聴いていました。当時のパンク・ムーブメントに触発されてバンドに参加しましたが、当時の周辺のバンドで影響を受けたバンドはありません。海賊艇Kのスタッフとして相当数のバンドをリアルタイムで見ていますが、音として影響を受けるようなバンドはなかったな~。唯一、午前四時は格好良かった。
──海外のポストパンク/ニューウェイヴのバンドはどうでしたか?
野本:PILには衝撃受けましたね。特に1stと2ndは圧巻でした。音作りとしてはTHE SMITHの後期、エコー&ザ・バニーメンの初期も好みですね。ですからウィル・サージェントやジョニー・マーは好みです。常に意識しているのは音はなるべく少なく、不必要な音やメロディは排除、できるだけ少ない音で最大の効果を、ダークなものや暗いものは限りなく美しい音で、難解なものほどポップな音に。という感じです。白石くんのボーカルや歌詞はダークで暗く難解に受け取られがちなので、とにかくサウンドは美しくポップに(笑)。
──「NOBUYA」というタイトルの曲がありますが、これはあの金属バット殺人事件を起こした青年がモチーフになっているのでしょうか?
白石:最初の発想はその通りです。あの事件は詳細は覚えていないのですが、NOBUYAは受験戦争を強いる父親を憎み、殺害に至ったと記憶してます。支配構造に組み込まれている受験戦争を離脱するには殺害しかなかったのか? 支配構造はそこまでの憎悪を生み出すのか? そう考えさせる事件でありショックでした。そして作っている途中で普遍性を持たせたいなと思いました。ノブヤの表記をアルファベットにしたのはそのためです。そこで事件内容には触れず、支配構造が待ち構える社会だけれど、2人目、3人目のNOBUYAにはならないでおこう。ならずにおこう。みたいな内容にしました。
──DISC-2には、シンクロナイズのライブ音源が時系列に沿って収録されています。膨大なライブ音源の中からどのようなポイントで曲をセレクトしたのでしょうか?
白石:それぞれの時期で演奏頻度の高いもの。演奏が割と出来のいいもの。歌詞の間違いがないもの。を選びました。とはいうもののほんの少し歌詞の間違いがあります。それから希少性です。特にCD-3(The Skarlets Studio & Live)のライブ曲はチキンシャックでのものなのですが、あの音源に入ってる曲の大半はあれ1本にしか残っていませんでした。
野本:CD-1のスタジオ版と比較して聴いて面白いように考えました。シンクロの主要な曲が漏れないようにも配慮しました。活動が10年以上にわたるので、その中で変化していく曲もあります。その辺の変化が分かるようにも考慮しました。もちろん演奏が良くてミスしておらず音質が悪すぎないものということもあるため、相当時間をかけて吟味を重ねました。コロナの時期ならではの作業でした。
Chapter06:改名~活動停止~その後
──バンド名をザ・スカーレッツに改名したのは、どういう理由からですか?
白石:これも自然の流れでしょうか。あるとき、今演ってるのはシンクロナイズという名前に合わないなと、ふと気づきました。スカーレッツにしたのは色を表す言葉であること。汚れなき清純さと俗っぽさの両極の意味があることに惹かれました。
──改名は、白石さんと野本さんが話し合って決めたことなのでしょうか?
野本:白石くんが決めました。シンクロは言葉に関することはすべて白石くんが決めますね。誰一人異をとなえません(笑)。
──ザ・スカーレッツのライブではどういうバンドとよく対バンをされていましたか?
野本:スカーレッツの活動はレコーディングが主となっていて、ライブはCDに収録されているチキンシャック(対バンは突然段ボール)の1回だけだったかもしれません。
──ザ・スカーレッツがリリースした2本のカセットは「Recorded at ken's home」とクレジットされています。これは野本さんの自宅で録音されたということだと思われますが、当時の宅録環境を教えてください。
野本:TOAの8トラック・マルチトラック・カセットレコーダーを私が購入したということ、ドラムが不在でドラムマシーンだったことで、自宅録音が可能となりました。一戸建てですがことさら防音などはしておらず、ボーカルはクローゼットの中で録音しました(笑)。自宅録音としたことで音を作りこむことができました。逆に言うとかなり私の個人的な音作りになってしまい、バンドとしてはどうなのかな? という部分もなくはありません。
──ザ・スカーレッツは何年頃まで活動したのでしょうか? 活動を停止した理由は?
白石:スカーレッツは1987年から1990年まででしょうか。停止した理由は、精神的に行き詰まってしまったからでしょうか。モチベーションが保てなくなりました。少しバンドを休もうと思って、練習を保留にしたのですが、そのまま数十年経ってしまいました。
野本:収録されているライブ音源の直後で活動は停止となりました。理由はよく分かりません。白石くんの個人的な理由だったのかもしれませんね。もしくはほとんどのサウンドを私が一人で作ってしまうようになっていたので、今から思うとバンドとしては成立しなくなっていたのかもしれないなと…。そもそもライブ活動自体ほとんどなくなっていましたし…。自然消滅したように感じています。
──ザ・スカーレッツの後に白石さんはBLOSSOM FOREVERSというユニットで活動されていたようですが、これはどういうユニットだったのでしょうか?
白石:一度スカーレッツを休止した後で、この先モチベーションを保てるのか確信が持てない状態の頃です。無理なく自身の意欲度を上げられるのか確かめてみたいと思いました。そんな試験的あるいはリハビリ的な意味合いを持ってやってみたユニットでした。スタジオ内での音出しまでで、活動といえる域までにはいきませんでしたが静かな充実感。穏やかな楽しみみたいな感覚を得ることができました。記憶財産。
──その後はどのような活動をなさっていたのでしょうか?
白石:普通に社会人でした。音楽活動はつい最近まで個人レベルでもまったくやっていませんでした。
──野本さんはスカーレッツの後はどのような活動をされていましたか?
野本:バンド活動がなくなってからしばらくは何も音楽活動はしていませんでしたが、DTMが発達して一人でも音作りできるようになったため、ソロで録音していました。これは(kenji nomoto名義で)リリースしたソロCD(『music for myself』)のA面に収録されています。それも本業が忙しくなり休止していましたが、コロナで時間ができたので再開しました。これはソロCDのB面に収録されています。