オムニバスの『都市通信』と2枚のシングル。改名後のカセット2本。
その手掛かりの少なさゆえ、シンクロナイズは日本のポスト・パンク/ニューウェイヴの歴史の中で検証される機会がほとんどなかった。
残した作品をつなぎ合わせてみても点にしか見えず、線として全体像を把握することが困難だったからだ。
だがそんな状況も『An afterimage』が発表されたことで、ようやく好転していくことだろう。
日本でも知る人ぞ知る存在だったカルトなバンドやアーティストのレコードが海外で続々と再評価される動きは、今なお加速し続けている。
デビュー時から海外のポスト・パンク/ニューウェイヴと同期したサウンドを展開してきたシンクロナイズは、おそらく今後そうした動きの中でも再評価されていくはずだ。
時代はもう一度(というか、ようやくというべきか)、彼らとシンクロし始めたのだ。
そして、時代の呼びかけに答えるかのように、シンクロナイズは未来への扉を遂に開けた。
長いこと謎に包まれていたシンクロナイズとは、一体どのようなバンドだったのか。
『An afterimage』という「シンクロナイズの歴史を辿る時空旅行」がより快適なものになるガイド役として、白石未来夫と野本健司に自らの歴史を語ってもらうことにしよう。(インタビュー・本文構成:小暮秀夫)
Chapter01:結成前夜~シンクロナイズ始動
──まずはシンクロナイズ以前のお二人の音楽活動歴を教えてください。
白石未来夫(以下:白石):外で音楽活動はしていませんでした。個人的に曲と歌詞は書いていました。
野本健司(以下:野本):小学校高学年からドラムをやりたくて、教則本を見ながら適当に叩いていました。中学の頃からベースとギターを弾き始めて、友人と遊んだりしていました。高校1年~2年の頃は仲間と3人でフォークトリオを組んで軽音楽クラブで活動していました。後にセカンド・シングル『Priest』の頃にシンクロでベースを弾いているのは、このときの西山(哲史)です。
──シンクロナイズは1978年に結成され、同年9月に新宿ライヒ館でライブ・デビューを果たします。結成のきっかけはやはりパンクに触発されたからでしょうか? 影響されたバンドがいたら教えてください。
白石:マージービートと言われた一連のバンド、ニュー・ロック、サイケデリック、アートロック、プログレ…。そしてパンク、ニューウェイヴ。それぞれの時代のバンドに影響を受けてます。パンク時代以前からバンドはやりたいと思ってはいました。でもパンクは動きを促進させ、メンバーとの出会いをもたらせてくれたのは確かです。
──バンド名をシンクロナイズにしたのはどういう理由からですか?
白石:身の周りの世界でも遠い世界でも、世界と自分は同じ時間に同期している。あるいは同期せざるを得ないという意識が音楽を演る動機と結びついていたと思います。
──1980年に発表された『都市通信』(注:レコーディングは1979年)に参加する前は、ライブ活動が中心だったのでしょうか?
白石:そうです。1曲でも多く曲を作ろうとしていました。
──その間にメンバーチェンジもあったようですが。
白石:メンバーチェンジは何度かありましたが、メンバーとして落ち着いて取り組むことができるようになったのは『都市通信』のメンバーからです。小暮(義雄)くんは雑誌の募集に応じてくれました。國井(聡)くんは小暮くんが連れてきました。メトロにいた横田(尚美)さんは僕がライヴハウスで声をかけたらしいです。僕は忘れてますが、横田さん本人がそう言ってました。
──バンドの最初期には、後にVanity Recordsからアルバムを発表するToleranceの丹下順子さんがメンバーだった時期もあるようですね。
白石:メンバーといえるほど定着してはいなかったと思います。お互い同士で試用期間を設けたような状況だったのだと思います。しかも短い間のことです。でもライヒ館に一緒に出ていました。
──MUNION発行の『日本のパンクロック』によると、ライヒ館でのデビュー当時のメンバーは、ボーカルとギターが白石、キーボードが丹下、ベースが坂本、ドラムが江口という布陣だったようですが。
白石:ギターが江口、ベースが坂本、キーボードが丹下、ドラムが吉川、ボーカルが白石。これが正解だと思います。
Chapter02:『都市通信』~野本健司の加入
──企画グループ、海賊艇Kとはいつ頃どのようにして出会い、『都市通信』に参加することになったのでしょうか?
白石:森(未来)くんとどこで出会ったのか場所は覚えていませんが、出会ったときのことは覚えてます。初対面なのに異常に愛想がよく、昔からの知り合いのような気軽な口調で話しかけられました。かえって警戒してしまいました。『都市通信』に参加する経緯は覚えていません。おそらく森くんに誘われたのだと思います。
──『都市通信』のときにベースだった國井聡さんはその後脱退して、女性ボーカルのポップ・ロック・バンド、READYに参加。1981年4月に日本コロムビアからデビューします。かつてのメンバーが、芸能事務所が組ませた業界ロック・バンドに関わっていくことをどう思っていましたか?
白石:もともと彼はオーソドックス・ロック志向のテクニック派で、ニューウェイヴ系志向ではありませんでした。でもお互い方向性の違いはあっても音楽の姿勢では通じるところが多大で一緒にやっていて、まったく違和感はありませんでした。そのことが不思議でもありました。僕は志向性の違いの問題を忘れさせてくれるくらい彼の人柄が好きだったので、彼が去ったことにネガティブな感情を抱くことはありませんでした。すぐに美れいの(実方)仁美ちゃんが後を継いでくれたこともあり不都合もありませんでした。彼が去ったのは残念でしたが納得はしてました。その後、彼は業界に長くはいませんでした。自らの意志で業界と距離をとったようでした。彼の素朴な性格からして芸能業界は合わなかったのだろうなと想像してます。
──野本さんが加入することになった経緯というのは?
白石:海賊艇Kと関わるようになったら、気がつくと彼がなんとなく近くにいるなと感じて、横田氏が辞めたタイミングで彼にキーボードをやってくれないかと頼みました。それが始まりです。
野本:ちょうど(自分が)ノンバンドを抜けた後に(シンクロでは)キーボードの尚美ちゃんが抜けていて、その助っ人的な感じで参加しました。それで、つくばアクアクでS-KENとシンクロがライブをやったときに「KENはギターが良いんだよ」とS-KENの田中(唯士)さんが言ったことで、すぐにギターに変更となりました。たぶんキーボードとしてのライブはその1回だけだったと思います。その後すぐにベースの國井くんも抜けてしまい、代わりに解散していた美れいの仁美ちゃんが(ベースで)参加することになりました。
──ノンバンドのオリジナル・ギタリストとしての活動からシンクロナイズに参加するまでの野本さんの活動の歴史を教えていただけますか?
野本:ノンバンドに参加したのは17歳(高校3年)のときでした。ノンバンドの活動は1979年7月から1980年2月24日の『都市通信』発売記念GIGまでで、その後、S-KENの田中さんに誘われてS-KENでギターを弾いてました。S-KENでのライブはディスコむげん等の数回だったと思います。
──野本さんはシンクロナイズと並行して江戸ッ子というバンドでも活動されていたそうですが、江戸ッ子はどのような経緯で結成されたのですか?
野本:パンク系のライブによく来ていた増渕(利恵:後にコリーナ・コリーナ、コンクリーツ)さんと話していたら「バンドがやりたい」というので、「じゃあやればいいじゃん」ってことで始まりました。シンクロはメンバーが抜けたりして活動があまりできていない時期だったと思います。増渕さんがベース、当時の増渕さんの高校の友人の池野さんがドラム、私がギターという構成で、16~18歳で全員が高校生でした。増渕さんと池野さんの高校の文化祭にも出演しています。後に池野さんが受験に専念するということで抜け、代わりにモモリン(後にGAUZE)が参加しました。モモリンも高校生でパンク系のライブをよく見に来ていて増渕さんが声をかけました。江戸ッ子の詩や曲は増渕さんと私が作っていました。ノンバンドではノンがすべての曲を作っていましたし、私も初めてのバンドなのでほとんど曲作り音作りに関わることなく抜けてしまいましたし、S-KENでは単純にギターを弾いていただけですし、シンクロも参加した当初は白石くんの曲のレパートリーがしっかりありましたので、江戸ッ子では曲作り音作りについて自分が主体となって試して遊んでいました。
──野本さんは海賊艇Kのスタッフでもあったそうですが、スタッフとしてはどのようなことをされていたのでしょうか?
野本:海賊艇Kを主宰していた森未来(野本耕作)が兄でしたので、自動的に手伝うようになりました。当初はミニコミ『マインドゲリラ』用にライブの写真を撮ったりレポートしたりという感じでしたが、海賊艇Kがライブ企画を行なうようになると、チラシ作成とチラシまき、ほとんどのライブの当日の設営スタッフ、参加バンドとの打ち合わせなどをやっていました。写真を撮りに行ったライブでノンのメンバー募集を知り、応募して参加することとなりました。数回セッションしただけですぐに1979年7月に屋根裏でノンバンド(ノンと2人だけ)としてデビューしました。
──お兄さんが海賊艇K主宰者だったということは、『都市通信』リリース後のゴタゴタに巻き込まれて大変な思いをされたのではありませんか?
野本:正直なところ、それどころではなかったです。18歳で家業が倒産してホームレスになりましたので、日雇いバイトして三畳間を借りて落ち着くまでの2週間程度は何も手がつかない状態でしたし…。とはいいつつ、バンド活動は続けていたので、森くんはバックレましたが『ストリート・サバイバル宣言』(1980年6月14日に開催された海賊艇K主催のオールナイト・イベント)にもシンクロとして出演してますし、同時期に『ニュー・ディスク・リポート』付録ソノシートのためのレコーディングもしていました。『都市通信』の通販の云々などまったく考える余裕すらありませんでしたね~。