「地球がね、ここまで滅茶苦茶になったんだよ、原子力発電所とかできちゃって。じゃ、それから人間はどこ行くんだよ? もうヤバイぜ?」(江戸アケミ)
日本が80年代のバブル経済に熱狂していた時代に、まるで現代の深刻な事態を予見したかのような危機感を発しながら、1990年1月27日に36歳という若さで夭逝した江戸アケミ。彼がヴォーカリストとして率いたバンドJAGATARAは、80年代のロックシーンに巨大な軌跡を残しながら、アケミの急死と共に永久保存された。その後、残されたメンバーは、それぞれの活動を続ける中、JAGATARAと江戸アケミが残したメッセージを今の時代に伝えようと折りにふれて集結してきたが、アケミの没後30年にあたる2020年1月27日を機に、Jagatara2020を始動し、30年ぶりの新曲『みんなたちのファンファーレ』『れいわナンのこっちゃい音頭』を含むアルバム『虹色のファンファーレ』をリリースする。今後、JAGATARAは何をするのか。それから、私たち日本人、地球人は、どうするのか? 命日のワンマンライブと翌日のトークイベントを前にメンバーのOTOと南流石に語っていただいた。(INTERVIEW:加藤梅造)
もっと人のために踊りたい
──最初に、今回、Jagatara2020を始動するに至った経緯を教えて下さい。
OTO:ずっと前のことだけど、僕が今暮らしている熊本の農園に南が突如やって来たことがあったんです。
南:2014年の9月11日だったかな。OTOの誕生日に突然行ったら面白いかなと思って、何も言わずに行ったんだよね。それで久しぶりにいろいろな話をして、その時に30回忌のことも話した。私は、アケミが亡くなってからの年月をずっとつないでいきたいと思っていて、時々ライブでJAGATARAの曲を歌ったりしていたんだけど、熊本に行ったのはその一環だった。
──その日からJAGATARAの復活がだんだん具体的になっていったんですね。
OTO:アケミの30回忌のことはずうっと頭にあって、僕はそこに標準を合わせて生きてきたような所もあった。その時にもし自分が健康で元気だったら、何か自分にできることをやろうと。実は去年、イベント「東京ソイソース2019」の計画中に、S-KENから「OTOが東京に来るって決めたらまとまると思う」と言われて、JAGATARAはブランクも長いし、その前に一度集まってやるのはウォーミングアップにいいかなと(笑)。それでソイソースに出ることを決めて、みんなと久しぶりに会ったらすごく楽しかった。だったらこのまま2020年に向かっていこうと。
──OTOさんは2009年に東京から熊本に移住し、2011年に福島で原発事故が起こってからは関東にもう行けないと判断して、それ以来一度も東京に来てなかったんですよね。
OTO:そうだね。「関東には行かない」と宣言して、サヨコオトナラの活動もストップしていた。2014年に南が熊本まで来てくれた後、そのことの意味をいろいろ考えたんです。あの時、南は「今まで私は私の踊りを作りたくてやってきたんだけど、その私というのは今はもういらないということに気づいた」と言ったんですが、僕の中でも「ああ」と思うことがあった。僕も農園ではずっと自分というものをオフにすることを考えていたんです。だから南の意識と同じ流れに立っているなと。それはアケミのいた頃のJAGATARAとはまた違った、これから先の新しいつながりになっていくんだろうなと感じたんだよ。そこからまたJAGATARAが始まった気がしている。
南:「セルフレス」が1つのキーワードだった。私は3歳の頃から踊りを始めて、それからずっと自分の踊りを追求してきたけど、自分のために踊るとか、自分のために何かをやるという人生はもういらないなと。簡単に言うと、もっと人のために踊りたいと思うようになったんだよね。アケミからずっと「お前はお前の踊りを踊れ」と言われ続けていたんだけど、その本当の意味は「お前が勝手なことをやれということではない」と気づいた。
──アケミさんは「じゃがたらなんか見に来なくてもいいんだ、おまえたちはおまえたちの友だちを作れ」と言ってましたが、その言葉にも通じますね。
江戸アケミ(撮影:松原研二)
南:そうかも。私はその時、もう自分のために何かをやるのってダサいって感じてたんだよね。
OTO:僕がいま居るアンナプルナ農園を開いた正木高志さんはインドのヴェーダーンタ哲学を深く勉強されてきた方なんですが、僕はそれを知った時、こんな面白い哲学があったのかと。しかもそれが3500年ぐらい前からずっと培われてきたということは、僕にとってものすごいカルチャーショックだった。そのヴェーダーンタ哲学の中心になっている考えが非二元論の「自己放棄」という考え方で、もともと自分と宇宙は一体であるということなんです。この考えを知ってから、アケミの歌を聴くと、ああ、アケミはこういうことを言っていたのかというのがすごくよくわかる。僕は農園に入った時、とにかく農作業に集中したかったから一切の音楽をオフにしたんだけど、それでも、農作業中、辺りは空と森しかないもんだから、突然、空からアケミのフレーズが舞い込んで来る。あの言葉の意味はこういうことだよと。例えば「無数のガラス玉が宇宙にはじけ飛び出す」(「つながった世界」)がどんな意味なのかとか、いままでよくわからなかった歌詞のフレーズをまるで解説してくれているような、ものすごい体験をした。それは今でも続いているんだけどね。
OTO(撮影:松原研二)
──農園での体験があって、また音楽に気持ちが向かったんですか。
OTO:それでまたすぐ音楽に向かうことはなくて、その時は、なんというか、自分が農作業しかやることがない状態が本当に嬉しかった。僕がそういう生活に入ったのは、3・11に福島の原発事故が起こったというのがやっぱり大きい。それまではサヨコオトナラで音楽の旅をしながら、それぞれの地域の生産者とつながっていけば、安全な食べ物を確保できると思っていたのが、いよいよそれも不可能になるなと。それぞれが自立したコミュニティの中で僕は音楽をやっていると思っていたんだけど、でも自分が音楽をやるだけの能力しかないと思うと、なんか薄ら寒いんですよ。お客さんに向かってギターを弾いていても、自分は米ひとつ作れないのかと思うと、なんか俺、カッコ悪いなと。それは自分が自分でそう感じたということですが、だったら俺は今回の人生で農業をやることにしようと決めた。すべての人がそうしなければいけないとは全然思わないけど、僕の場合はやった方がいいなって。そういう生活になって、はたして音楽をやる時間を作れるかどうか分からないけど、まずはその暮らしに入ってから音楽が生まれてくるのをずっと待ちわびよう。そういう音楽がいいかどうかではなく、僕が一番聴きたいのがそういう暮らしの中から生まれた音楽だから。それを他力本願でなく自分でやるしかない。それで新しい音楽に出会うことができたら最高だなって。