Rooftop ルーフトップ

INTERVIEW

トップインタビューロフト席亭・平野悠の「好奇心 何でも見てやろう」

第二弾
「ひかりの輪(元オウム)と行く聖地巡礼同行記 その2」

2010.12.08

 今から15年前の事件だった。あの社会を震撼させた「オウム真理教」は、名前を変えて生き残っていた。そのオウム真理教(現アレフ)から、松本家支配を嫌って独立した宗教団体が、ひかりの輪(上祐史浩代表)だ。
 今年7月、代表の上祐史浩氏とNaked Loftのイベントでトークしたことから、私は日光への聖地巡礼に同行した(ちなみにトークライブはニコニコ動画とU-streamでも公開し、そのアクセス数は4万を突破した)。参加者は40数名。私のほか、ロフトシネマのジャムオが撮影班として同行した。この聖地巡礼同行記はあまりにも濃く、内容がもりだくさんすぎてなかなか書ききれない。今回はその第二回目である。

 聖地巡礼の集団は、朝5時に京王線烏山にあるひかりの輪道場を出発し、2時間ほどで日光に着いた。滝尾神社〜二荒山神社付近の巨大な杉の大木が乱立する清流のほとりで、リラックス体操をし、それぞれが自由にヨガや瞑想に1時間半ほどの修行をした。そしてその時々に上祐氏の講話を聞きながら、神仏に感謝の気持ちを表すため日光東照宮、輪王寺等を参拝して回った。そして夜は、中禅寺湖畔の宿に宿泊したのだった。(以上、前号まで)

上祐氏の講話に苛立つ自分がいた

 夕食が済んで8時より、上祐代表の夜の講話が始まった。約2時間にわたる講話は、私にとっては実に退屈というか、ただ一般的な宗教講話という印象に終始した。講話が終わり、ジャムオが心配そうに私に訊ねてきた。
 「悠さん、大丈夫ですか? 何かこの講話の間、とても悠さんの表情はイライラしている気がしました。これから上祐代表にインタビューの時間を予約していますが……」「そうだな〜。俺は今、どういうインタビューをするのか? というところでとても迷っているんだ。30分ほど考える時間をくれ」と言って、私は祭壇のある広間から自分の部屋に戻った。
 そしてしばらく考え、「私は、ひかりの輪の会員でも何でもない。だから遠慮無しに、この日私が感じたことを、それが相手に失礼なことでも聞いてみるしかない」という結論に達し、インタビュー会場に向かった。一切の資料を持つこともなしに……。

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弘法大師が修行したという滝がある滝尾神社そばの小川にて瞑想に入る

あの日、神様のの祝福を感じたんです

「インタビューよろしくお願いします」と私は明るく言い、窓から見える中禅寺湖の湖面に光る宿の明かりに目をやった。
 上祐氏は穏やかに話し始めた。
 「平野さんとおつきあいの始まりとなったトークショーの後でした。平野さんが、そのトークの印象などを書かれていたものを読みました。平野さんは、『波動とかオーラを感じた』とおっしゃっていましたが、私の方も当日、不思議なことがあったんです。その日、直前に車に乗っているとき、普通は、瞑想や気功や、聖地にいる時にしか感じない、まあ宗教的な世界で言うと、“神仏の祝福”を感じて、エネルギーがす〜っと上がってくる状態になったんですよ」と、上祐さんは懐かしむように言った。そばで広末副代表が見守っている。多分、ひかりの輪はこの人が上祐氏を影で支えているんだろうと思った。
 「そうですか? あのイベントの半月ほど前に幸福の科学のイベントがあったんですが、私にとっては何も胸打つものが無くって、まあ、カルトってそんなもんだろう、ぐらいしか思ってなかったんです。しかし、ひかりの輪は違っていたんです。初めて会う上祐さんがとてもキラキラしていて、そこから出てくる波動というかオーラが、私を打ちのめすというか圧倒する感じになったんです」
 「そうですか。私の方について言うと、これは時々起こるんですが、自分ではない何者かによって救われる。キリスト教的には精霊が下りるという感じだったんです」

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日光二荒山神社の入口での上祐氏の講話。ここから観光地巡りのようなツアーが始まった

ひかりの輪は、一般論の宗教で充分です

「あの日、上祐さんが言っていることが、みんな私にとっては新鮮だったんですよね。それでぶっ飛んでいた。凄いなって。この上祐さんが発するオーラというか波動は何だろうって思って。そんな好奇心があって、この聖地巡礼に参加したんですが、今日のひかりの輪の上祐さんの立ち位置と講話を聞いていて、それは僕が四国歩きお遍路をやってその各寺の坊主が言う説教と同じで、ほとんど何も感じなかったんですよ。失礼ですけど『ひかりの輪って何なんだろう』って感じたんですよ。敢えて、上祐さんがこの教団を立ち上げた意味が見えなくなって、この教団は普通の宗教になってしまったなって感じたんですよ」私は、正直に言ったつもりだった。
 「宗教がぶつかる壁として、『私たちの宗教が絶対なのです』と言い切り、ほとんどの宗教はここで差別化しています。そうでないと宗教として人が集まらないという恐怖があるわけです。肩肘張って主張することに『従来の宗教の間違い』があります。この上祐史浩を始めとする、ひかりの輪の人間達に縁があって、その縁の不思議な力で人が集まって来て、『去る者は追わず、来るものは拒まず』ということが前提です。そうでないと、宗教で一番大切な『争わず、他をいたわり優しくある』という基本的なことが出来なくなってしまいます。ですから私の講話は『一般論』で結構です。現代の競争社会の中で、トヨタがホンダに、ホンダがトヨタに、『俺たちが一番だ』と言うようなことを宗教がやってしまうと、宗教が一番大切な、『争わずに』ということが出来なくなってしまうです。教義では『優しくあろう、他のために』と言いながら、他の宗教とか自分の宗教を否定する者とは激しく闘うわけです。平野さんが言われた『一般論』というのは、言い換えれば、普遍的な道理であって、それが今多くの宗教で実行出来ているかというと、全然出来ていない。そういった基本的な宗教を、私はどうしてもやりたいと思うんです」

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一日目の夜の講話終了後、戸惑いながらも勧められるがままに礼拝

自分が唯一絶対だとは主張しないのがまっとうな宗教だと思います

 上祐氏の話はさらに続いた。「宗教は、根拠もなく自分のところが一番だと言っちゃいけないと思います。しかしそれを言わないと存続出来ないと思いこんでいる。これに打ち勝たなければいけないと思う宗教家が、私を含めているだろうと。21世紀の今、宗教は人を救う面もありますが、中東とかでは激しい争いをやっていて、イスラム、キリストの原理主義は何をやっているか? という話になって、世間の人は、『だから宗教はイヤだ』ということになる。そういった風になるのをどうにか変えようと思っていて、今私たちは闘っているのです」
 「それが、オウム事件からどん底の苦しみを生き抜いて来た“ひかりの輪の生き方”なんですね。麻原のオウムではそれが出来なかった?」
 「はいそうです。オウムは世界で一番・唯一の存在と主張し、信者が来たら出家させ、教団外に出ると地獄に堕ちると言う。そして、社会が自分達が信じる善の方向に変わらないから、ポアするとなる。その意味で、オウムは、21世紀までの宗教の悪い所を極大化した存在だと思います。自分達の個性や自分達との縁をアピールするのは良いけれど、自分が唯一絶対だとは主張しない宗教の方が、まっとうだと思います。しかし、それでその宗教は生き残れるのかっていう大きな問題が次に出てくるんです。その不安と勇気を持って闘わないといけない」
 「宗教が一般的善意で生き残るのは難しいと?」
 「私は、平野さんも闘っていると思うのです。今CDが売れない時代で、音楽業界は大変なことになっているわけですよね。先日、平野さんが私が出たトークショーの前振りで、『何万人もの人がこの映像で見ているけれど、それを経済的に支えてくれているのはここに生で来られている人だ』って訴えられているのを見ていて、本当に感動、共鳴しました。私も王道で生き残れることを証明しなければ、やっぱり邪道な宗教をやっている人達は、改心しようとしないだろうし、まっとうな宗教をやるには、財務面等の現実の困難としっかり見て闘って行かねばならないんだと思っています」(以下、次号に続く)

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私の失礼な質問も真摯に受け止め、丁寧に答えて頂いた

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