Rooftop ルーフトップ

INTERVIEW

トップインタビュー平野 悠(Rooftop2012年6月号)

創始者が自ら書き綴ったライブハウス「ロフト」の軌跡

2012.06.01

まだ「ライブハウス」という言葉すらなかった時代──。坂本龍一、山下達郎、浜田省吾、サザンオールスターズ、BOφWY、スピッツ......日本のロックのパイオニアを数多く輩出してきた音の「ゆりかご」=ロフト。
その41年に及ぶ波乱の歴史の黎明期を創始者・平野 悠が自ら書き綴った『ライブハウス「ロフト」青春記』が6月下旬に講談社から刊行される。本誌の連載コラム『ロフト35年史戦記』(2005年3月号から2010年7月号まで掲載)を大幅に加筆した壮大なフォーク/ロック・クロニクルだ。
歌謡曲に対するカウンター・カルチャーとしてのロックが日本で市民権を得る過程において、ロフトが果たした役割とはいったい何だったのか? また、既成の音楽に飽きたらず、若い表現者たちが発する"五線譜に乗らない音"を一貫して支持し続けてきたロフトのスタンスとは? 躍動感溢れる筆致でロフトの紆余曲折を描いた著者に話を訊いた。(interview:喜多野大地)

一番思い入れがあったのは烏山と西荻窪

──烏山から始まるロフトの軌跡を書き綴ることになった経緯から聞かせて下さい。

平野:何年も前からロフトの歴史を1冊の本にまとめてみたいと漠然と思っていたんですよ。でも、そう簡単な作業じゃないし、ロフトを始める経緯まで含めると膨大な歳月があるから、なかなか着手できなかったんです。そんな頃に“噂真”の岡留安則編集長が書いた『「噂の真相」25年戦記』という本を読んでね。「「“噂真”が25年なら、ロフトは35年じゃないか!」って突拍子もないことを考えて、これはとにかく自分も書くしかないぞと思って。それが今から7年くらい前の話です。ただし、単行本化に際しては何度も推敲を重ねました。

──資料らしい資料がほとんど残っていない状態で書き進めたそうですね。

平野:僕が烏山ロフトを始めた70年代初頭はカメラがとても高価で気軽に持ち歩けるものじゃなかったし、そもそも何かを記録として残しておくという発想すらなかったんです。だって、烏山ロフトなんていつ潰れてもおかしくないようなスナックだったしね(笑)。たかだか7坪の小さい店で、投資資金だって140万円くらいしか掛からなかったんだから。僕もまだ27歳で若くて、いつだって店をやめちゃえばいいと思っていたんですよ。

──そもそも烏山ロフト(71年3月)を始めたのは何がきっかけだったんですか。

平野:大学を出て就職した郵政省をやめて、何回か出版社の就職試験を受けたことがあったんだけど、これがことごとく受からなかったんですよ(笑)。それに、当時の僕にはカミさんと子供もいたし、腹を据えて自立した店をやるしかなかった。退路を断つしかなかったんです。そもそもロフトっていうのは、郵政省で従事した新左翼系労働運動に疲弊して始めた店なんですよ。貯金局の仕事は本当に退屈で、隣りに座っている上司が自分の40年後の姿だと思うとゾッとした。とても働く気にはなれなかったし、それなら自分の好きなジャズを流せるスナックを作ろうと思ったんです。

──その後、西荻窪(73年6月)、荻窪(74年11月)、下北沢(75年12月)、新宿(76年10月)、自由ヶ丘(80年6月)と、9年の間に6店舗のロフトを矢継ぎ早にオープンさせるわけですけど。

平野:日本のロックが急速に発展していく時期だったし、必要に迫られた部分もありますよ。烏山から西荻窪までは2年掛かったけど、その後は1年おきに店をオープンさせている。それだけロックに対する需要が高まっていったこともあるでしょう。それに伴って店のキャパシティもどんどん大きくなっていくんです。7坪の烏山から始まって、西荻窪は15坪、荻窪は30坪、下北沢は35坪、新宿は65坪ですからね。

──本書を執筆するにあたり、特に気を留めたのはどんなことですか。

平野:とにかく当時のことを思い出すのに精一杯でしたね。『ROCK is LOFT』(ロフトブックス 刊、97年7月発行)というロフトのスケジュールを網羅した本を見ながら記憶を辿るしかなかった。実を言うと、西荻窪や荻窪のライブをデンスケ(テープレコーダー)で録っていたこともあるんですよ。そのテープが100本以上あったんだけど、全部当時の店員に盗まれてしまったんです。荻窪のティン・パン・アレー・セッションとかもあったのに、あれは残念でしたね。盗まれてバカバカしくなって、下北沢以降はライブを録らないことにしたんですよ。まぁそれはいいとして、ひとつひとつの記憶を掘り起こすのが大変でした。こうして書き上げてみて改めて思ったのは、自分の一番思い入れがあった時代は烏山から西荻窪なんだなということ。そりゃそうですよね、何から何まで自分1人でコツコツやらなくちゃいけない時代なんだから。かなり紆余曲折のあった時代だし、筆致も生々しいと思います。

──確かに、売上低迷に七転八倒する烏山ロフト、初めてブッキングに着手する西荻窪ロフトの章は熱のこもり方が違う気がしますね。

平野:僕は烏山でいろんなことをお客さんから教わったんですよ。自分の知らないジャズの世界、アンダーグラウンドな日本のフォーク、欧米のロックといった音楽の知識に始まり、店の作り方やライブハウスとはどういうものかというノウハウに至るまで。だから烏山と西荻窪が一番思い入れの深い店なんですよね。なんで烏山の次に西荻窪に店を作ったのかと言えば、たかだか7坪の店をやっているだけでは将来が不安だったからなんです。烏山の売上は1日平均2、3万円程度で、月の売上は90万円くらい。バイトを2、3人雇っていたから、それで収支はほぼとんとん。多少お金が残るくらいだから、烏山だけじゃとても食べていけない。だから西荻窪に2軒目の店を出すことにしたんですよ。

「俺がやらなきゃ誰がやる!?」と意気込んだ荻窪ロフト1206hirano_loft1.jpg

──特定の読者層を想定しながら書いたりしましたか。

平野:僕としては、これから自分の店を持ちたい人、ライブハウスという特殊な空間作りに携わりたい人に向けてこの本を書いたつもりなんです。そういう人たちの参考になればと、烏山ロフトをオープンさせて四苦八苦する姿も隠さずに書きました。店を始めたって、その店に何か売りになるものがなければそう簡単にお客さんが来てくれるわけがない。烏山ロフトなんて、レコードが100枚もないのに堂々とジャズ喫茶を名乗っていたんだから噴飯ものですよ(笑)。スピーカーだってパイオニアの家庭用の4チャンネルでしたからね。吉祥寺のファンキーや新宿のDIGみたいにちゃんとしたジャズ喫茶はJBLパラゴンのプロ用のシステムを使っていたというのに。当然、お客さんからは呆れられてしまう。それでジャズ喫茶風の経営をやめるわけです。お客さんの中に自ら入り込んで、1人1人の話をじっくり聞くようになった。一声掛けるたびに常連を増やすというね。それはもう必死でしたよ。野球チームを作ったり、海水浴やスキー・ツアーに行ったり、野草採り天ぷらツアーを企画したり(笑)。本当の意味での店作りはそこからでしたね。その辺の話は、店作りをしたい人たちにとってはそれなりに面白いんじゃないかと思いますよ。

──「ライブをやれる店をやってみないか?」という提案も、烏山ロフトのお客さんから出たそうですね。

平野:そういう提案をもらったのはラッキーでした。まさか自分でライブハウスを作るなんて思ってもみないことだったんだけど、月に何回かライブができる店はとても面白そうだったんです。それと、時代が後押しした部分もありましたね。60年代のグループ・サウンズが終わって、日本のロックが産声を上げた頃のタイミングでしたから。はっぴいえんどや小坂忠といった音楽を烏山のお客さんから教わって、僕はぶっ飛んだんですよ。こんな世界もあったんだ! って、とても感銘を受けたんです。それで西荻窪にライブをやれる店を出した。ただ、そこはステージが狭くてあまり大きな音が出せなかったし、頭脳警察のPANTAやセンチメンタル・シティ・ロマンスから「平野さん、ここでライブをやるのは限界があるよ」と言われて、半ば煽られる形で1年後に荻窪ロフトを作るわけです。JIROKICHIも屋根裏もまだなかったし、曼荼羅は浦和にあった頃で、東京にはそういうライブスポットが絶対に必要だと思ったんですよ。「俺がやらなきゃ誰がやる!?」っていう意気込みでしたね、荻窪ロフトは。存分に音を出せる空間を作らなければならないという使命を感じていました。

──渋谷のB.Y.Gもすでにライブをやらなくなった頃ですよね。

平野:B.Y.Gは、僕が西荻窪ロフトを作った頃にはもうライブをやらなくなりました。B.Y.Gがライブをやり続けていたら僕が荻窪ロフトを作ることはなかっただろうし、B.Y.Gのブッキングをやっていた風都市(はっぴいえんど、あがた森魚、はちみつぱい等のマネージメントをやっていた企画集団)の連中が僕のところへやって来ることもなかったでしょう。風都市にいた前田至(現・前田祥丈)、柏原卓、長門芳郎がやっていたテイク・ワンという事務所に荻窪ロフトのブッキングを任せたんです。僕は山下洋輔が大好きだったから、山下洋輔のマネージャーをやっていた柏原卓とは話が合ったんですよ。だから荻窪ロフトは、言うなれば時代の要請ですね。西荻窪ロフトとは違う。西荻窪ロフトはまず目新しさがあったし、ライブハウスとは何なのかを手探りで実践していた店だったから。

──下北沢ロフトの位置付けは?

平野:当時は中央線の三寺文化(高円寺、吉祥寺、国分寺)が全盛だったんだけど、それが徐々にターミナル文化に押されていくようになるんです。ちょうどターミナル駅である渋谷の繁華街に屋根裏が出来つつある頃でね。西荻窪、荻窪と来て、中央線以外のスポットなら渋谷、新宿、六本木辺りを狙いたかった。でも、そんな頃に自由ヶ丘と下北沢が若者の街として脚光を浴びていたんですよ。それで、下北沢にたまたまいい地下の物件が見つかったからやることにしたんです。烏山、西荻窪、荻窪の売上を掻き集めて店を作って、開店早々に黒字でしたね。下北沢は一番苦労の少なかった店でした。お客さんもたくさん来てくれたし、「このバンドを出させてくれ」と引く手あまただったし、ブッキングに焦りが全然なかった。

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ライブハウス「ロフト」青春記

平野 悠・著
並製四六判/304頁/定価(本体1,600円+税)
ISBN978-4-06-217709-2 C0095
講談社・刊
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