音楽を取り巻く環境が劇的な変化を遂げ、様々な革新的ムーヴメントが生まれた80年代。"バンドブーム"はそんな80年代中盤以降に勃発し、社会現象にまでなった一大ムーヴメントだ。その"バンドブーム"とは何だったのかを回顧しつつ、現代にも通ずる色褪せぬスタンダード性を再検証するイヴェントが音楽制作者連盟・主催の『NEXUS"BATTLE 80's LIVE SHOW 〜バンドブーム・リターンズ〜"』だ。ブームの往時を牽引したバンドマンが一堂に集結し、2チームに分かれて繰り広げるライヴ・バトル・ショウである。このイヴェント開催を記念して、2チームのキャプテンであるジュン・スカイ・ウォーカーズの宮田和弥とレピッシュのMAGUMI、イヴェントのプロデューサーであるスマイリー原島、音楽制作者連盟の理事も務めるスピードスター・ミュージック代表の安藤広一に"バンドブーム"という日本のロック史における大きな発展期について存分に語り尽くしてもらった。(文・構成:椎名宗之)
なかなか出られなかったロフト夜の部
原島:今回の『BATTLE 80's LIVE SHOW 〜バンドブーム・リターンズ〜』は、和弥チームとMAGUMIチームに分かれてバトルする趣向なんですよ。宮田和弥、浜崎貴司、アキマツネオ、川上次郎、源 学という布陣の和弥チーム、MAGUMI、水戸華之介、杉本恭一、森若香織、ISSAY、広石武彦という布陣のMAGUMIチームが激突するという。
宮田:ああ、そうなんだ? 今、初めて知った(笑)。
安藤:チーム名も付けたんだよね?
原島:一応付けてみたんだけど、ISSAYから「僕はポコチンでもナゴムでもないし、イカ天でもホコ天でもない」という申し出がありまして(笑)。なので、単純に和弥チームとMAGUMIチームがいいのかなと。
MAGUMI:採点はどうやってするの?
原島:まだ未定です。最後は和弥とMAGUMIのガチ勝負で決めるのがいいんじゃないかな。
宮田:両チームが交互に演奏していく、『紅白歌合戦』みたいな感じ?
原島:そうです。あなた方はキャプテンなんですよ。芸歴の長いお2人ですから、演奏の合間にもトークバトルを披露して盛り上げて頂きたいですね(笑)。ところで、皆さんのデビューはいつ頃でしたっけ?
宮田:レピッシュが先だよね。ジュンスカは'88年5月にメジャー・デビューだから。
MAGUMI:そうだね。ウチのメジャー・デビューは'87年9月。安藤さんは?
安藤:ルースターズに入って最初のリリースは『ニュールンベルグでささやいて』だから、'82年10月かな。
MAGUMI:俺はまだ脇毛も生えてない頃だね(笑)。
原島:俺が'84年デビューなんで、この面子は上手い具合にバラけてるね。ちなみに、和弥がバンドをやり出した場所はホコ天だったの?
宮田:いや、学校の音楽室。学祭でバンドを初めてやったのが中学3年の時で、それから福生のUZUや高円寺のレッドハウス、新宿のジャムなんかに出るようになった。でも、最初はお客が入らないから、友達にチケットを売り付けたりしてね。最初は付き合いで来てくれるんだけど、そのうち居留守を使われるようになるわけ。それで仕方なくホコ天に出て行ったんだよ。
原島:当時の原宿は、ローラー族が全盛の頃でしょ?
宮田:うん。でも、バンドも2、3組ほどいたね。僕たちがホコ天に出始めた頃はまだ縄張りみたいなものがあったかなぁ。けど、ライヴが終わる時間帯にロックンロール族の人たちが来て「ゴミはきちんと片付けていこうね」って。当時から凄くエコだったね(笑)。
原島:当時からそういう自然発生的な"ごみゼロナビゲーション"があったんだ?(笑)
宮田:そうそう(笑)。しょうがないから、楽器を片付けて、お客と一緒に捨てられたゴミを持ち帰ったりしたね。
原島:MAGUMIの東京での初ライヴはどこ?
MAGUMI:一番最初は、明治大学の学祭だね。その1ヶ月後くらいに新宿ロフトの昼の部かな。
原島:ああ、いつまで経っても夜の部に出られなかったという。
宮田:ロフトは僕たちもそうだったよ。
MAGUMI:動員を増やせば夜の部に出せてもらえると思って、頑張って110人くらい呼んだことがあったんだよ。当時、Zie-SKIPSっていう女性ヴォーカルのバンドとよく対バンをさせられてたんだけど、彼らはいつも3、4人しか呼んでこないの。それなのに、夜の部へ移ってもZie-SKIPSと対バンが一緒で、動員を頑張っても頑張らなくても一緒じゃん! って思って(笑)。そのバンドが凄くいいならまだ納得できたんだけどね。
原島:聞いたことないもんね。スキップカウズなら知ってるけど(笑)。人気や動員があっても、必ずしも優遇されたわけではないと。
MAGUMI:昔のライヴハウスの人は好き嫌いが激しかった気がするね。のぼせもんみたいな連中は嫌われてたし、ストイックで寡黙なバンドが好かれてた印象がある。
原島:確かにね。ジュンスカはホコ天の後、ラ・ママでよくやってたよね。
宮田:後に僕らの事務所の社長になる門池(三則)さんは当時ラ・ママのブッキング・マネージャーで、僕らが高校生だった頃から可愛がってくれてたんだよ。昼の部で"高校生ロック・バトル"とかを組んでくれたりね。そのイヴェントにストリート・ロック・ファッカーズっていうバンドが出ていて、そこにウェルズの坂巻 晋がいたんだよ。そんな流れもあった後にキャプテンレコードからアルバムを出すことになって、安藤さんにプロデュースをしてもらって。そのタイミングで門池さんがラ・ママを辞めて、バッド・ミュージックを作ったんだよね。