ブームの発火点は『宝島』だった
原島:80年代って、今思えばジャンル的には何でもアリの混在した時代だったよね。
宮田:うん。僕らがラ・ママに出ていた頃は有頂天と米米CLUBが花形バンドだったけど、44マグナムとかも出てたんだよね。ナゴム系もあればパンク系もあり、ヘヴィメタもあり、混沌としてた。
MAGUMI:当時のラ・ママはグラム系のイメージもあったよね。
宮田:そうだね。ジギー、マルコシアス・バンプ、ちょっと後にイエロー・モンキーとかね。
原島:ライヴハウスに音楽的なジャンル分けが今ほどなかった時代だったよね。
MAGUMI:鹿鳴館も昔はヴィジュアル系ばかりじゃなかったしね。
安藤:俺は80年代の前半だから、鹿鳴館でも屋根裏でもライヴをやったんだよ。
MAGUMI:ウチも鹿鳴館は2回やってるんだよ。ブッキングの人が気に入ってくれて。
安藤:俺たちの時代は、ノルマなんて言葉もまだなかった。
宮田:ラ・ママは20〜30枚のノルマがあったよ。ただ、門池さんは当時貧乏な僕たちにノルマなしでやってくれてたけどね(笑)。
安藤:世の中的にはジュンスカやレピッシュが活躍していた頃をバンド・ブームって言うけど、何がきっかけでブームになっていったのかね?
原島:俺は『宝島』がきっかけだった気がするね。『宝島』というフレームに収まった時点からひとつのムーヴメントとして捉えられたんだと思う。
MAGUMI:僕らは確実に『宝島』だった。その後、エロ本になったり、経済誌になったりするとは思わなかったけど(笑)。
宮田:ホコ天のブームがあって、『宝島』も音楽誌の色が強くなっていったんじゃないかな。それまではもっとサブカル全般を扱っていたじゃない?
MAGUMI:まさしくこの『ルーフトップ』のように、紙質や判型がだんだん変わっていったよね。最初の頃はもっとミニコミみたいだったし。
安藤:サブカル雑誌としては、『ビックリハウス』と『宝島』が張ってたからね。『ビックリハウス』はちょっとインテリっぽくなりすぎたけど、『宝島』はその時代の現象を上手いことボトム・アップしていった印象がある。
MAGUMI:初めて全国ツアーを回った時、広島の33人っていうのが実売の最低だったんだよ。他の会場はほとんどソールド・アウトだったし、初めて行ったのに33人って、立派な数字じゃない? それも『宝島』効果だった気がする。
原島:俺も初めて東京でライヴをやった時、博多よりも客が入ってるのを見て驚いたよね。それまで、『シティロード』と『宝島』に小さな記事が載った程度の露出だったにも関わらず。だからやっぱり、今よりもメディアに力があったんだよ。
MAGUMI:あと、ブルーハーツの存在も大きかったんじゃないかな。当時、対バンが一番多かったのはブルーハーツで、最初に火がついたのは彼らだったね。
宮田:そうだよね。僕の中では、ブルーハーツ、レピッシュ、ロンドンタイムスがいつも一緒にライヴをやってた印象があるんだよ。僕らよりもちょっと上の世代って言うか。
原島:確かに、ブルーハーツが世に出て行った時の衝撃は凄かったよね。口コミで瞬く間に広まっていったし、メディアで取り上げていたのは『宝島』くらいだったんじゃないかな。
MAGUMI:あの頃はミニコミが凄くたくさんあって、どのミニコミでもブルーハーツを特集してたんだよ。ミニコミというメディアが活発だったのも、新しい時代の夜明けみたいに感じてたね。
原島:ホコ天とかストリートに根差した現象を積極的に取り上げていたのは、『宝島』やミニコミだったよね。一般のメディアは関心がなかったじゃない?
MAGUMI:でも、ホコ天はテレビがけっこう取り上げてたよね。僕らよりもちょっと後の時代かもしれないけど。
宮田:僕らがホコ天でやってた頃の2年くらい後かな、"イカ天"(『平成名物TV 三宅裕司のいかすバンド天国』)が始まったのは。
MAGUMI:ブームやヒューズ、カステラとかが出てきた頃はもうテレビがクローズ・アップしてたよね。
原島:全盛時のホコ天には何人くらい人が集まってたの?
宮田:何千人も来てたみたいだね。最後の頃は人が多すぎて警察まで来ちゃうから、3曲くらいやって撤収するような感じだった。
原島:規制がまだ緩やかな時代だったし、学祭とかも凄かったよね。ルースターズと一緒に上智大学の学祭に出た時、5,000人くらい客が来たんだよ。もはやちょっとしたフェスだったからね。だから、当時のメディアは規模が小さくても波及効果は大きかったよね。今みたいにいろんなものを広く浅く検索はできなかったけど。
MAGUMI:今は情報が多過ぎるからね。セックス・ピストルズが出てきた時に、"この人たちは宙を浮いて演奏してるんじゃなかろうか!?"って思うくらいのもの凄い衝撃を僕は受けたから。手掛かりになるのは、音と写真だけ。だから、情報があり過ぎるのも問題なんだと思うよ。