雪を割るようにして育つふきのとう。それは新たな命の季節の始まりだ。鮮やかな黄緑は彩り豊かな春を予感させる。ところがそれが放射能汚染された。ふきのとうだけではない。いっせいに伸びる山菜も、水も、イワナもヤマメも汚染されてしまった。さびしいだけの話ではない。摘んで食べられなければ買うしかない。それぞれはたいした値段ではなくても、買わなければならないことは生活を貧しくする。これが私たちの「おカネがなくても暮らせる部分」を失わせる。都会に住んでいれば「おカネがなければ暮せない」のは当たり前と思うだろう。しかし自然が豊かであることは、おカネがなくても暮らせる生活を保証してくれるのだ。森も川も海も、すべてが貯金だ。清冽な水があり、山菜が生え、魚が採れる豊かな自然のあることが、私たちの暮らしを支えてくれているからだ。
それが失われると支出が増える。しかし賠償されるのは前年と比較しての収入減少分だから、支出の増加は隠されてしまう。「浪費しすぎじゃないですか」の一言で捨てられてしまう。ぼくはこの部分にこそ、重要な経済があると思う。それを奪われたせいで、私たちはとても貧しくなった。次に山菜が食べられるようになるのは、約200年後だ。そのときにふきのとうが食べられることを、人々は覚えていられるものだろうか。
ぼくが実現したいのはカネに頼らない社会だ。カネに頼らなくても暮らせる部分が広がれば、貧富の格差も問題ではなくなるし、働くことも奴隷労働ではなくなる。ところが原発事故が、人々の暮らしの基盤を汚染してしまった。しかし絶望するわけにはいかない。ならばそれ以外の部分でカネに頼らない暮らしを再構築しよう。雨水利用すれば水道・下水道代が減るし、省エネ製品と自然エネルギーを入れれば電気代も不要になる。将来は自給した電気で電気自動車を走らせよう。何世代も使える住宅を建てればローン地獄から解放される。さらに北欧のように医療費と学費が無料になれば、人々の暮らしはもっと豊かなものになれるだろう。そんな未来を目指そう。もう二度と原発には頼らない。汚染されてしまった今でも、それでも未来に憧れる。