加藤梅造社長と、ゲストを招き音楽を語る「音楽航路」というイベントを始めた
未来は若者の手にある
なんとも「新年あけおめ」ときた。2019年は、またもや安倍自民党の愛国独裁体制の政治になるんだろうな。なんと言っても若者世代の、「安倍さんでいいんじゃないの」が半数以上ということにびっくりこき、私は政治から逃げるように、「よしわかった、未来は若者の手にある。もう俺たちは賞味期限を過ぎている。なにも言う気にならない。若者が頑張れば」と彼らの選択を見守るしかない。これからさらに多くの経済難民たちが日本にやってくる。その昔、多くの日本人移民が海外に移住したのと同じだ。彼らは家族を背負って働きにくる。だから真面目に懸命に働く。単純労働、頭脳労働を含めて、日本の若者たちはこれから彼らと激烈な競争しなければならない。大変だと思う。
2018年『ROCK CAFE LOFT』無念の総括
さて、この記事を書いているのは師走の真っ最中だ。やっと2018年の総括をする気になった。
昨年、私は106日に及ぶ世界一周ピースボートの航海をし、時間がありすぎる中、なぜか長いこと離れていたオールドロックの世界にハマっていた。レッド・ツェッペリン、ピンク・フロイド、エマーソン、グランドファンク、ドアーズ、グレイトフル・デッドと、日本語ロックのはっぴいえんど等々。と、同時に70年前後の、通い慣れたロック喫茶やジャズ喫茶を懐かしく思い出していたんだ。
自分も古希(70歳)を過ぎた。人生も、もう終盤。もはや、かつてのようにジャズやロックにハマることはあるまいと思っていた。だが、毎日のように酒を飲んで、海と風に身を任せて音楽を聴いていると、なんともその時代の光景がキラキラしだすんだ。それは見事に、私が青春だった時代をとてつもなく謳歌してくるのだ。
船の中で、日本に帰ったらどうする? という課題がのしかかっていた。私は、「よし、日本に帰ったら70年代に流行ったロック喫茶を開こう」と思った。船から日本に、「歌舞伎町でロック喫茶をやる。物件を探せ」というメールを出した。
ロック喫茶の偉そうな主人をやりたかった
私の意識はその昔のロック喫茶。そうそう、この主人はいつだって偉そうにお皿を回転させ、私たちに、「さ! この新曲で、これでどうだ!」というドヤ顔をする。私はそういったロック喫茶の主人を真似たかったのだ。
昨年3月に『ROCK CAFE LOFT』はオープンした。12時から店は始まる。夜はロック居酒屋だ。一杯飲みながらロックのあれこれを語ろうという場にし、週末の夜にはゲストのロック人を招いてイベントをやる。私は2Fの爆音ルームにてお客さんの来場を待つ。心新たに、自分の音楽の再出発はこの店だというつもりだったので、精神誠意を込めてお金も結構使って、利益無視で店舗の企画制作をしたつもりだった。
入り口の赤いドアが目印
お客さんがまるっきり来ない。イベント中心の店に変身
さて、どんな客が入ってくるのか、どんなリクエストをするのか、可愛い子は来るのか、私のかってのロック理論は通用するのか…興味津々だった。本当に小さな店だ。可愛いもんだ。内装にも自信を持った。
しかし、客が来ない。夜のロック居酒屋タイムもひどい有様だった。ネット上でも、新宿ロフトやロフトプラスワンなどのロフト系列の店でも、毎晩宣伝をしているのだが、ライブ帰りのお客さんすら来ない。これはとても悲惨だった。お客を待つ私はだんだん胃が痛くなってきて、辛くて酒も飲む気にならず、店にいられないようになった。老齢の私は逃げ出すしかなかった。「ロック喫茶/ロック居酒屋」が中心の営業方針は諦めざるを得なくなった。そこで私は第二のテーマに重点を移した。毎日毎日、識者やあらゆる業界の人を呼んで、その人にナビゲーターをやってもらって、音楽人生を語り、貴重なレコードを聴き、酒を飲み、居合わせたお客さんとおしゃべりをするのだ。
2Fには「ロック道場」という名の爆音ルーム
老兵はまたもや失敗〜ロックは終わったか
私はどこか失敗を感じた。挫折した。読みが甘かった。もう私の感性は通用しない時代なんだ、と痛感した。「今の若い子はヒップホップやラップでロックなんか聞かない」「反抗的ロックは死んだ」という言い草にも衝撃だった。
若い子たちにヘッドホンやPCから離れて、高性能スピーカーによる爆音の中で、「体でロックを感じてほしい」と思ったから、爆音ルームなるものまで作ったのだが……。
爆音ルームは高性能スピーカーを設置