ひとり、夏の終わりの海を見る
気がつけば誕生日
70歳を過ぎて、いまさら自分の歳を祝う気にはなれない困った年寄りだ。何歳になったか知りたくもない。お祝いは気持ちから出発するものだ。偏屈な私には、そのお祝いを受ける気持ちが喪失している。思い出に残るような誕生日会の経験もない。もういつ死んでもおかしくない歳になって、毎日死に向かって時を刻む中(それほど切実に迫って来ているのだ)、誕生日のお祝いのどんな言葉も、無味乾燥で意味をなさない。ネットに氾濫する、「誕生日おめでとう」の言葉の羅列にげんなりして誕生日のネットでの告知を拒否した。誕生日は自分が気がつかないで過ぎてゆくのが一番いい。この歳で欲しいものも買いたいものもない。最後に買うとすれば月の土地でも買うか。
革命がしたかった
午後11時が大体私が帰宅する時間だ。それからランプとビールとipad、読みかけの本を持って、緑に囲まれた私専用の三階ベランダで一人、夜風に吹かれながら音楽を聴き、やはり様々な過去の追憶にふける。孤独な自分を眺めている。思い起こすは青春の蹉跌(過ち)の日々だ。
あの、「政治の季節」と言われた時代、俺たちは戦後から支配してきたアンシャンレジーム(旧体制)と戦った。もちろん当時の自民党や社会党、共産党も大学も職場も新興宗教も旧体制だ。ソ連も中国も信用していなかった。時代は若者のものだ。世界中の若者たちが立ち上がった。今を変革する「革命」をしたいと思った。泊まり込んでいる大学のバリケードの中から路上に出て、今日死ぬかもしれないと思って暴力機動隊の壁を実力で突破する戦いに明け暮れ、戦闘的デモに参加する毎日だった。
3Fベランダの風はいい
何であんなことが?
一人思い出すのは60~70年代の青春の時代ばかりだ。考えてみれば無茶無茶だった。私は大学に入ったばかりの19歳。王子野戦病院阻止闘争(当時政府はベトナム戦争のアメリカ軍の後方基地を東京のど真ん中に作ろうとしていた)で、私は初めて逮捕された。機動隊のリンチにあって血だらけになりながら護送車に放り込まれた時、なぜか「俺は今誇りを持って生きている」と空に向かって叫んだ覚えが戦慄してくる。さて無欲にして今私に何ができるのだろうと考えてみた。あの時代と同じことができるだろうか、いやとても出来ない。
できることならスーパーボランティアのおっさん(78歳)みたいになりたいと思うことしきりなのだが、怠惰な私はもう体力、気力もついて行かない。自分の気持ちの奥底に入るしかない。
人間は孤独のうちに生まれ孤独のうちに死んでゆく(釈迦)
私の好きな真理をついた言葉だ。
”所詮人間一人ひとりの悩みや苦しみは誰も共有できない”の通り、私は今から果てしない孤独にのたうちまわる最後の時間を考えている。そして、死後も含めて一人であるということを確認する訓練をする。
私の最後の夢はまさしく、「やすらぎの郷」(倉本聰のテレビドラマ)みたいな老人ホームにひとり入ることだ。(相当なお金がかかりそうだが)散歩ができる海があって山があって、いい風に吹かれて良き老人たちが住んでいて、医療設備が完備していて、酒と音楽と本があれば充分最後を生きながらえられる。時折、都会に出て歌舞伎町のネオンを眺めながら追憶の世界に入る。
多分、これからさらに死ぬまでの間、果てしない孤独に向き合ってゆくに違いないと思っているのだ。
第一回音楽航路
私とロフト社長が醸す一夜。歌舞伎町ロックカフェロフトでの「メッセージフォークを爆音で聴く」はなんと台風のさなか30人以上の人たちが集まってくれた。
「今、大企業では早期帰宅命令が出ています。まだ電車は動いています」とアナウンスしても誰も席を立たなかった。
……ふっと、昼下がり、夏の終わりの海が見たくなった。
退職金で買ったばかりの新車のレクサスを飛ばして、小田原から海岸線を北上して逗子に。しかし、やはり江ノ島からの海にそびえる富士が見たくて江ノ島に引き返す。江ノ島名物シラス三昧を夕食にして、太陽が沈むのを待った。小田原からの海岸線はまだ海水浴客がたくさんいて混んでいた。海辺の夏のざわめきは消えたいた。
でも、今日はちょっと洒落て湘南を一人ドライブ。レクサスの音響はいい。
メッセージフォークを爆音で聴く