7月にオープンしたロフトプロジェクトのライブハウス青の館「LOFT HEAVEN」
表現のための文章を書くということ
本当につい最近のことだが、「文章で人を感動させたい」という意欲がなくなって来ている。無作法な私は、やはり何かを表現するとなると、それこそ楽器を自然と奏でたり絵心のある人が絵筆を持つと同じように、その風景や情景を文章にしたいと思う。
私は70歳になるまでに4冊の本を出版していて、なんとも作家気取りになって、高齢新人作家を目指し、どこかの出版社の新人賞を狙おうと思ったこともあるのだが、どうもそんな才能はないと思うことしきりなのだ。
「文章を書く」という表現の場のほとんどは、この自社フリーペーパーのコラム、フェイスブックやツイッター、自身の楽天ブログなどだが、このところ連載以外はほとんど何も書いていない。確かに自身ツイッターのフォロワーは1万近く、フェイスブックは1,500人(申請者は断らない主義)、ブログの閲覧は1日500を超えることは珍しくなく、いつだって全力投球しながら記事を書いている。「いいね」などは常に100を超えているのだが、この暑さゆえイマイチ力が入らないのだ。しばらく辛抱すると秋が来る。
知る人ぞ知るロック界のレジェンド天下の村松雄策さん(ロックカフェにて)
新しく生まれたロックカフェロフトを支持してほしい
新店舗・新宿歌舞伎町「ロックカフェロフト」は、心機一転して新しい試みを始めた。日本に新しい音楽であったロックやフォークが登場してから60年余り、市井のそれぞれの人たちが青春時代からこだわって来た"音楽人生"の中で、きっと貴重なレコードやシークレットだった逸話話をたくさん持っているはずで、それぞれの"音楽人生"を垣間見ながらアナログレコードを聞こうというのがこの店なのだ。爆音で視聴するということも含めて、音楽を語り、ナビゲーターがなぜその音楽にハマったのかを聴き、居合わせたお客さんとおしゃべりをし、酒を飲み交わすというコラボ空間なのだ。
そこは音楽関係者を含め、政治家、社会運動家、ライター、アイドル、アニメ、ゲイ、AV女優、とそれぞれのジャンルの文化人たちがその音楽の思いを語る場になって来ている。「ロックカフェロフト」で、素晴らしい人間交差が始まっているのだ。それはもう勝手なレコードをかけて、それこそ貴重なうんちくを並べて、お客さんと酒を飲んで自分の音楽人生をおしゃべりをして、爆音で音楽を聴いている。これこそ心に残るサブカルの極意だと思うのだ。
その昔、深夜の新宿ロフトにはたくさんの表現者が集まり、音楽論議が交わされたり、セッションをして新しいバンドが生まれ、シーンが生まれて行ったが、今回もそんな空間になれればいいと思っている。果たしてこのシーンは新しいビジネスモデルになるのだろうか? もちろん「ロックカフェロフト」の営業は未だ大幅赤字なのだが。
我が家のベランダでのこの夏の収穫
*今年6月の「週刊朝日」のコラム「最後の読書」に私の文章が掲載された。とても評判が良く、各方面から「いいね」と言われているのでその一部を載せたいと思う。多分、天下の週刊朝日も許してくれると思うので是非読んでください。
最後の読書~存在の謎として生死の大切さを思う
小学生の頃から、「死んだらどうなるのか」という命題に突き当たって、「永遠=無限」という果てしない死後の世界に長いこと恐れおののいていた。きっと哲学的な少年だったのかもしれない。私の祖父は明治時代に日本に永住したアメリカ人で、好むと好まないとにも関わらず私は「幼児洗礼」を受けていた。「この世には天国と地獄がある」と教わって、死の恐怖から逃れるために、疑問を持ちながらも教会や聖書や遠藤周作とかのキリスト教文化人の書物を読んだ。でも、私の死への恐怖感は消えることがなかった。そんな悩みを友達に打ち明けると、そんな多分誰にも言えない恐怖を持つ人が、この世にいかに多いかということも知った。死んだらどうなるかの恐怖は今でも若干あるが、ある時、私は若くして死んだ哲学者池田昌子の『死とは何か(毎日新聞社)』という一冊の本に出会った。「生命が尊いだと馬鹿言っちゃいけません。生命は尊くも卑しくもありません。ただの自然現象です」「どこまで考えても死なんてものはない。言葉だと知るだけだ」というフレーズに、それまで何十年間も恐れていた「死」の恐怖がどこか吹っ切れた。誰一人経験したことがない死を、死ねば永遠に何もなくなると信じることの愚かさを知った。人生100年と言われる時代だが、最近、私にとって大事な友人たちがどんどん亡くなってゆく。もういつ私に死が訪れても不思議ではないと思うようになった。「人間は孤独のうちに生まれ孤独のうちに死んでゆく」(釈迦)という。そして近い将来、自らの死を垣間見た時、きっと果てしない孤独と付き合ってゆくに違いなくて、いい人生だったかどうかは全てを運命(運が良かった悪かった)と総括することに決めた。その時、私は池田昌子の『死とは何か』を枕元に置いて安らかに死んでいけると思っている。そして今、私は「存在の謎として生死の大切さ」を痛切に思う。残りの人生をどう生きるかは、「無知な自分を見つめること。自然に争わないこと」で、長い間テーマで仕事でもあったロックの世界と趣味の読書を堪能しつつ、死ぬまであとどのくらい新しい音楽と出会えてどれだけ本を読めるかが生きる証だと思う。(以下略)
真夏の夜中、ビールと生暖かい風とロックに包まれて
ojisan201808_004.jpg(小さめに)
「最後の読書」週刊朝日 2018年6月号