前回も書いたが、今回のピースボートは乗客1000人近くの70%が60歳以上だった。私は突然、生まれて初めて高齢者コミュニティの中にたたき込まれ、(私も含めてだが)老人達特有の醜さを見て気が滅入り、ほとんど個室から外に出なくなった。そして鬱状態になり、血圧が最高200まで上がってしまったのだった。
南極観光用砕氷船・ウシュアイア号。乗客定員70名
南極の美しさが心を和らげてくれた
ブラジルから飛行機で日本に帰ろうか──。何度もそう考えた。しかし、今回の旅は「死ぬまでに一度は南極に行ってみたい!」という思いから始まっている。途中下船は意地でも出来ない。途中で客死するならそれも運命だ、と思った。
横浜を出航して約1カ月後。別の船に乗り込み、11日間の南極ツアーが始まった。参加者総勢72人は老人ばかりだ。途中、魔のドレーク海峡を抜ける南極観光用の小さな砕氷船・ウシュアイア号は、揺れに揺れた。椅子はすっ飛び、食堂の食べ物は崩れ、手すりにつかまらないと眠れない。嘔吐したり、怪我したりする老人がたくさん出た。
それほど過酷な揺れを乗り越え南極に着くと、海は素晴らしく静かだった。そのWHITEの光景に圧倒された。素晴らしい。紺碧の海の色、ブルーの氷山、ペンギンやアザラシ。見ているだけで、鬱や高血圧の症状は、嘘のようにだんだん楽になっていった。
紺碧の海に浮かぶ氷山。夏、冬の南極に来てみたくなった
スペイン語が話せたばかりに……
夜中、私は毎日のように船内のバーで一人、酒を飲んでいた。船のスタッフはほとんどがアルゼンチン人でスペイン語しか喋らない。約30年も前、私はドミニカに5年間住んでいた。もう何十年も使っていないスペイン語だが、それでもみんなから見れば「ペラペラ」に見えるらしい。
南極ツアーの最終日、おばさん達数人からお声がかかった。「明日、ウシュアイアで地球さいはての蒸気機関車に乗りに行きたい。通訳をやってくれ」という(ウシュアイアは、世界最南端の町なのだ)。「まあ4〜5人なら、タクシーの一台でも雇えば何とかなる」と、タカをくくって引き受けてしまった。
翌日9時。約束の舷門に行くと、な、なんと、ツアー参加者は25人を超えているじゃないか。口コミで人数が増加して行ったのか? これには参った。みんなぞろぞろ私の後をついて来る。スペイン語を喋れるのは私一人。「帰れ」というわけにもいかない。
バス乗り場で運転手を捜しに行き直接交渉。相手の言うことの半分はわからないが、一人20USドルで、ミニバスを2台チャーターした。
往路は順調だった。ミニバスで駅まで行き、SLに全員乗車できた。しかし、終点駅で我々は待ちぼうけを食うことに。20分、30分と待つがバスは来ない。風も吹いてきた。他のツアー参加者は迎えが来て次々にその場を去り、駅には25人の老人集団だけになった。私のスペイン語力不足で、うまく伝わっていなかったのか……。
絶望的な気分になりかけた頃、ようやくミニバスがやって来た。30数分遅れである。やれやれ。「助かった!」と思った。まさに中南米時間だ。
地球最南端の国立公園を走る蒸気機関車
しかし、事件はそれだけではなかった。昼食後、集合はほんの500メートルばかり先の、さいはての郵便局と博物館の小屋、と伝えておいた。
約束の15時。84歳の老婆がいない。参った。10分、20分と過ぎ、ミニバスの運転手と相談して、車で探しに行こうとしたその時、他の外国人のミニバスに乗せられて、その老婆が現れたのだった。
道をふらふら歩いているのを保護されたという。彼女は「ピースボート、ピースボート」と、ただ繰り返していたらしい。私はほっと胸を撫で下ろすどころか、逆にどっと疲れが出てしまった。
その後、みんなから「楽しいツアーでした」と御礼を言われ、私はおばさん達のスターになったのだが、もう私の頭はパンクしていた。しかし少し経つと、何かやり遂げたという充足感で私の気持ちは幸福になった。「やったね! でも二度とやりたくないなあ」と感じた。でもこれでやっと、私も今回のピースボートで存在意義を見つけられたのかもしれないな、とも思ったのだった。(次号に続く)
ガイドをやった御礼にパーティーを開いてくれた。熟女に囲まれてご満悦