3/11の大震災以来、私は突然、サッカーワールドカップの時と同じく「愛国者」になった。私はこの「国難」に立ち向かうべく、種々の作業に忙殺されている。震災当初、私は親や子供を失い、自宅も流され、放射能に怯える被災地からの映像を見て涙ばかり流して悲しんでいた。しかし「これではいけない」と年老いた私は痛感した。これは「日本の存続」に関わる大事件なのだ。もう私の血圧も上がりっぱなしだ。そんな中、私は積極果敢に、さまざまな問題に参加することになった。
石巻市門脇町。この地区では火災が発生した。奥には焼けた小学校が見える
このままではライブハウスが潰れてしまう
3/11以降、東京の各ライブハウスはキャンセルの嵐に見舞われた。電車は止まり停電と余震が続く中で、とどめを刺すような原発の爆発。放射能拡散の恐怖は拡大の一途をたどり、自粛の波は東京の繁華街を襲った。
歌舞伎町の明かりは消え、人影がなくなった。客も来なければ、出演者達の自粛も続出。当然、ライブハウスは営業ができなくなっていた。震災から3日目、「ロフトだけでも、客が少数で赤字でも普段通りの営業を。さらには果敢にUstream中継を」と、私は各店の店長に檄を飛ばした。
この状況が続くと、ライブハウスは潰れてしまう。それはロフトだって例外じゃない、と思った。会社が潰れるということは、私の経営者としての責任の放棄であると痛感した。現在ロフトで働く人々の雇用を「全力で守るしかない」と、私の意識は集中した。
震災の日の夜、いち早く新宿LOFTと下北沢SHELTERは避難場所としての開放とドリンクサービスを始めた。もちろん無料だ。社会性を持った各店長の臨機応変の対応に、私は感動してもいた。
被災地・石巻からボランティア目線の生中継
各店舗で被災地に送る義援金もすぐに集めた(1カ月で200万円近く。多くの出演者とお客さんの善意が集まった)。次の私の課題は、被災地に積極的にボランティアを送ることだと思った。
ロフト社員・上野祥法は、元ピースボートにいた。奴は地雷撤去を始め、世界中でボランティアをやってきている。案の定、上野は「ちょっと会社を休ませて下さい」と言ってきた。「やっぱり、当然そう言うと思っていた」私は喜んで、彼を被災地・石巻に送り出した。
続いて、ビデオジャーナリストでロフトシネマ所属の石崎ジャムオを送り、現地からUstreamで生中継ができるように、ジャーナリスト・岩上安身さんのIndependent Web Journalと連動する作戦をとった。大マスコミのできない、ボランティア目線で現地から発信する生映像は評判になった。被災地は見るも無惨、想像を絶する光景が続いているとか。ボランティアの数も圧倒的に足りていないという。5月には、私も現地に入る。
町中に堆積する汚泥。(石巻市中央町)
高円寺「原発やめろ!!!」デモまでの舞台裏
3/27、高円寺の「素人の乱」の松本哉から突然電話があった。「平野さん、原発反対のデモをやりたいんだけど……」「やるべきだと思う」「いや、ロフトの力が必要なんです」。というわけで3/30、デモ会議が開かれた。実施まで10日間もない。それでもやるしかない、となった。
スローガンは「原発やめろ!!!」に決まり、サウンド、パフォーマンス中心の計画が練られた。後は参加者の自由に任せるということになった。デモコースは、「やはり俺達の住んでいるところ」ということで高円寺に。「新宿の方が盛り上がるし参加者も多いはず」という意見は退けた。
デモ日が決まってからの若者達の動きは素晴らしすぎた。口コミ、ブログ、Twitter、Facebook……、あらゆるところで「デモ告知」が溢れた。ネットのメッセージ欄も瞬く間に500を越えた。いつの間にか、「30万デモに」というビラが配られていた。これは、ドイツの25万人反原発デモを意識した、若い連中の意気込みの表れだった。
普段は、高円寺商店街のあまり人の来ない一番奥で、コツコツとリサイクル屋をやっている、音楽が好きな若者の集まり。そんな「素人の乱」の主催だ。「何人が参加するのか全く解らない」「怪我人が出たら」「音楽をやる機材や車の手配」「逮捕者が出た場合の保釈金」さまざまな問題があった。デモ行進中のトラックの荷台上でのバンド演奏については警察ともめたが、粘り強い交渉の末、なんとか許可を引き出した。
1万5000人が「反原発」を叫んだ
快挙だった! デモ当日、続々と押し寄せるデモ参加者。当日のネット中継や呼びかけで、参加人数はさらに、怖いくらい膨らんでいった。
私はデモの先導車に乗り込んだ。大量のスピーカーシステム、演奏機材を積んだ先導車は、パンクスの演奏ステージにもなっていた。パンクスの暴走を止められるのは、私しかいない(笑)。警備の警察とのやりとりは極めて難しい。どうやってデモの時間を長引かせるかが勝負だが、下手をするとパクられる。
デモが出発して20分で、3回目の「警告書」が出された。警視庁公安の奴が「警告書」を私に見せる。私はそれを見ない。「はい、警告3回目です」という声だけが聞こえる。「何の警告?」「故意に車を遅らせた罪とトラック上での危険な行為の罪」という、悪名高き道路交通法なんだそうだ。途中、「悠さん、気をつけて。4〜5回の警告で奴らはパクりますよ」と、ジャーナリストの昼間が言う。「でも奴らは、今はパクりません。大混乱するからです。デモ終了の頃にやりますよ」彼らは軍手もしていない。機動隊ではないのか?
5回目の警告書が出た時点で、私はパクられることを覚悟した。担当警官は、私をパクる作業に入った、と思われた刹那! 警察の規制が急に緩み、警告書は出なくなった。誰か警察の偉いさんの判断があったのだろう。「あまりもの参加人数で、警察がビビッていますよ」と昼間が私に言った。隊列も4列しか組めなかったのが、10列ぐらいになり歩道まで人がびっしりになった。警備も手薄になった。もう「無政府状態」だが、デモ隊からの投石とか、権力とのトラブルとか暴力事件はほとんどなかった。
参加者は歩道からも道路沿いのファミレスからも入って来る。1万5000人を越えたようだ。一般通行人とデモ参加者が音楽に踊り出しエールの交換をする風景は素敵だった。街全体が一体感に包まれていた。
このデモの参加者の意識の高さに私は感動していた。「なぜ、これだけの人が、中央線沿線のちっぽけな黄昏れた街・高円寺までデモに来てくれたのか?」。それは、政党とか労組とかのカンパニア闘争(全ての市民運動を選挙に集約させる既成政党の運動)に束縛されていない。無党派である。誰でも参加できた。自由を大事にする、閉塞した日本の音楽や芸術に対してのアンチ的アプローチでもあったように思う。
保坂展人を世田谷区長に! 世田谷に野外音楽堂を!
デモの準備に追われていた3月末日、下北沢の知人・下平氏から電話があった。彼とは下北沢再開発反対の「Save the下北沢」以来の付き合いだ。「保坂展人(元衆議院議員)をやっと口説いた。保坂は世田谷区長選に出馬する意志を固めた。ついては彼が出馬しやすい環境を作ってくれ」という。私は選挙に引っ張り出されることになった。
選挙嫌いの私が保坂氏を応援するのは、「世田谷に日比谷野音クラスの音楽堂を作ってくれ」という私達の要望を、文化が解る保坂氏だったら実現してくれるだろう、という期待からだ。世田谷区は人口87万人。東京都政はダメだが、ひょっとしたら、世田谷から日本を変えられるかもしれない。日本の貴重な文化を世界に発信できるかもしれない、と思って支援することにした。この記事がでる頃には結果が出ている。世田谷区民の民度が問われている。
石巻市写真:上野祥法(ピースボート現地ボランティア)
今月のロフト系美女
阿佐ヶ谷ロフトAで働いているムトウユウだ。おいおいおい、私と同じ名前じゃないか。彼女の写真が阿佐ヶ谷ロフトAのTwitterにアップされると、フォロワーが増えるそうだ