朗読詩人 成宮アイコの「されど、望もう」
自分の目で見たものならば、それは信じられますか?
こんにちは、朗読詩人の成宮アイコです。
台本がなく、出演者の赤裸々な人間ドラマを放送する(という体裁の)リアリティー番組/リアリティーショーの在り方が問題になっています。
制作側が出演者への配慮にかけていたり、わたしたち視聴者が放送されるものをその全てだと思い込み、出演者に勝手なキャラ設定をおしつけてしまうことにより、ショーだったはずのものはいつしか制作側・視聴者の欲望のふきだまりになり、出演者の心を食い荒らしているからです。
人はどこかで、他人を自分の思ったままに動かしたいという気持ちがあり、自分の思い描く風景を実現するために、あるいは作品(それを作品と呼べるのは作り手だけの気がする)の完成のために他人を素材として扱ってしまったり、時には無意識に誘導をしていることがあります。
すでにショーではなくなってしまったそういった手法は、日本でも海外でも自殺者を出しました。そのニュースを見て、わたしはとある番組製作会社さんが送ってきた「ドキュメンタリー番組の台本」に書かれていた1行を思い出しました。
「ドキュメンタリー番組の台本」がわたしに指示したこと
以前、長年続いているノンフィクション番組から長期取材を打診されたことがあります。
番組の名前は知っていたので詳しいお話を聞いたら、「台本をお送りします」と返信がきました。
……台本。その時点で嫌な予感はしていたのですが、念のためその添付ファイルを開いてみました。まったく会ったこともない知らない人が、知らないどうしのわたしにあらかじめ悪意を向けてくることはないと思い込んでいたからです。
その台本は何章かで構成されていました。そして、2章目の先頭の1行に書かれていた言葉に、世界中の音が止まってしまうような気持ちになりました。
そこには「父親に会いに行く」と書かれていたのです。
つまり、機能不全家庭で育ったわたしが大人になって、過去のことを文章に書いたり、あるいは詩に書いて朗読をすることを通して乗り越え、確執のある父へ会いに行ってわかちあう単純な感動ストーリーを求められていたのです。
その担当者さんは、わたしのこれまでの活動を多少は調べていたようで、祖父のDVのことや父がフェードアウトしたことなどもきちんと盛り込まれていました。でも、その経緯を知っているのならなおのこと、血がつながっているからといって人間関係は簡単に修復できることではないと思っている…はずです。
ましてや、自分から望んで父親に会いに行くことは難しい。そのくらいは多少の理解があるならば、きっと気づくのではないかなと思いました。
そうか、いま、わたしは雑に扱われているんだ。
そう気づくのはとてもむなしいことでした。
「こんなにきちんと作りたい物語があるのならば、ドキュメンタリーではなくてドラマを撮ったほうがいいと思います。」それだけを言ってやりとりを終えることにしました。
数年後、別の制作会社の方から同じく取材の依頼が届きました。メールの最後にはあのときと同じノンフィクション番組の名前が書いてあります。邪心が出たわたしは、明確な取材意図の書かれていないメールへのイライラを飲み込み、「詳細をください」と送ってみることにしました。
すると、「細かく伝える時間がないから見送らせていただきます」との返信。わたしは二度目のあの気持ちを思い出しました。
いま、わたしは雑に扱われているんだな。
いくら不定期放送とはいえ、何年も番組を作り続けるのは大変だということくらいは想像がつきます。番組内の情報共有がされていないのはいいとして、その取材対象には、つまり、あなたが送ったメールの向こう側には、心があって生きている人間がいるということの実感がないのだろうと感じました。
わたしは彼らにとって、生きている人間ではなく、「取材対象」という素材でした。
親と和解をした設定の自分を継続していけるのか
怒りを覚えるできごとすら「話題」としてすり変えていく数々の番組を目にし、もしもあとのとき、あの台本を引き受けていたらなにかメリットがあったのだろうかと考えます。
あの台本の通りに父親に会いに行き、「わかりあえた人」として生きていくことを考えると、たとえそれがショーとしてフィクションの自分であろうとも、そんな設定で生きていくことは耐えられないことはすぐにわかります。
心は売らなかったとしても、たとえ心の中では、「みんな"設定"に騙されてチョロイな」と一瞬は思えても、それを続ける気力を持つことは相当のメンタリティを持った人だけでしょう。それを保つにはずいぶんと無理をするはずで、今後ずっとその無理をしつづける事実に心が削られていくことは想像ができます。わたしにはできるとは思えません。それが可能な人っているのでしょうか。
そこで削られた心は、引き受けた本人の問題でしょうか。ほんとうに本人のせいでしょうか。足元に落ちた破片は自業自得でしょうか。簡単に投げかけられた設定は、設定だけですむのでしょうか。
人は生き物で、人生は続く。放送が終われば設定も同時に終わるわけではないのです。それは作り手がいちばんよく分かっているはずです。
わたしのフィクションはわたしが決める
それ以来、自分からアクションをしたとき以外に家族の話はあまり触れてほしくはないと思うようになりました。
自分の感情や体験をもとに活動をしてきたわたしは、いわゆる「わかりやすいデフォルト設定」をひとつ失ったとも思いました。失ったのか手放したのかは結論が出ませんが、とにかく結構な決心がないと触れることができない話題になってしまいました。
だけど、それを武器だと思うことはどうしてもできなかったのです。現実を装備していく、もしくは、向き合ってその事実を抱えていくのだという基礎体力や気力のようなものをわたしは持っていないからです。
向き合う気持ちもなければ、和解もしくは決別というわかりやすいクライマックスを迎える気持ちもありません。自分の欠落した部分、触れてほしくない部分にたいしてわざわざ辛いとか悲しいなどの感情を使わないように、うっすらと逃げていく方法。打ち間違えたラインの文字を親指で連打して消すように、一瞬のなんでもないことのように削除もしくはミュートする方法。
それがわたしが選んだ、すこしのお涙頂戴もない現実です。
わたしの人生は、父親に会いに行かなかったし、今後も明確な和解をしないのです。
そして、わざわざこみいった話をしない場面では、だいたいその場で思いついたことを言っています。たとえば、美容室では家族旅行に行ったりするわたし、たまたま居合わせて今後会わないだろう人には仕事の愚痴だって家族に話せてしまうようなわたし。”人生にはなんの問題もないわたし"、そのほうが会話をするのに楽だからです。
そう、自分のフィクションだって自分で決める。
最後に、今回経験したできごとの番組名を書かなかったのは、「そういったお仕事を生業にして生きているあなたの人生があるのだ」という、人間の生活への最後の敬意です。
でも、一生忘れないけど。