朗読詩人 成宮アイコの「されど、望もう」
夏、しましたか?
こんにちは、朗読詩人の成宮アイコです。
夏になると、「尊い犠牲」という言葉を目にすることが増えます。
たとえばツイッターのタイムライン、たとえば自動的に表示されるブラウザのニュース、たとえばつけっぱなしにしていたテレビ。
そのたびに、その言葉の組み合わせかたにモヤっとひっかかりを感じます。
犠牲って尊いの?
たとえば百歩譲って「尊い犠牲=尊い命が理不尽に犠牲になる」の略だとしても、それでもその略し方はあまりにも雑じゃないかと思うのです。そして、犠牲自体のことを美しいと思っている可能性が高い文脈にふれたときには、身震いするこわさをおぼえます。
このひとはわたしがイヤイヤあなたの犠牲になったとしても、感謝して美化して、イヤと思ったわたしの気持ちをなかったことにする、と感じるからです。
わたしは自己犠牲をしたくないしされたくない。というのは、誰かの気持ちをひきさかれるような我慢のうえに成り立つ幸せを、「幸せな暮らし」と感じる自信はないからです。
ただ、わたしたちにとってのトンデモ発言は、ある種の思考をもったひとには間違いのない正義で、それをトンデモと思うわたしたちのことを悪魔かなにかだとすら考えている場合もあるので、わかりあえなくてもいいけれどできれば理解をしあいたい派のわたしにとってどう頑張っても平行線になってしまうそれぞれの過去への想いは、今まさにひとりひとりが生きているそれこそ半径1mの生活環境に影響されたものだからとついうっかり諦めそうになります。
悪い言い方をすれば、すべてもっている人に最初からもっていないままだった人の気持ちは想像しきれない、とわたしもつい誰かに思ってしまうことがあるからです。たとえばそれは仕事や、お金や、家庭環境だったりします。
考えるべきはこわい言葉の意味ではなく、そのこわいと感じる言葉をそう思わず発することができる環境。憎むべきは人ではなく、状況。くりかえしそう言い聞かせて、かろうじて考えること自体の放棄を踏みとどまっています。(でもそれでも!それでも、でも……ねえ。)
未来のことに希望が見えにくくなってしまってから、いつ世界がひっくりかえるかわからないなと思うようになりました。そこで、わたしはとりあえずまわりの人に言っておくことにしました。
「もしも、わたしがそうなったら、その犠牲のことを尊いなんて思わないでほしい。」と。
だって、
命は尊いけれど犠牲は尊くないからです。
尊い犠牲をありがとう、なんて白黒のわたしの写真の前で泣かれたら「おこ!」ってなりすぎて生き返ってしまいそうです。生き返ったらそれはそれで望むところではあるけれど、そういうことじゃない。
だからどうか、「めちゃくちゃ可哀想で残酷すぎる仕打ちを受けた悲惨で理不尽で史上最低最悪な現実」と認識してほしいと願います。そうなった状況のことを心のそこから疑問をもってほしい。犠牲は悲しいだけだから、感謝なんてしないでほしい。ありがとうなんて美しいものにして、はしっこの部分を見ないふりをしないでほしい。犠牲を出さないといけないなんて "ぶっちゃけありえない!" って思うくらいでいてほしい。
そう自分自身にも言い聞かせつつ。これは、自分に言うためにも書きました。
今年の夏も、なんどもなんども「尊い犠牲」という言葉が聞こえて、また夏が終わっていきます。