Text by ISHIYA(FORWARD / DEATH SIDE)
マイノリティが生き辛い現実社会は、抑圧されて虐げられている当事者たちの責任なのか?
齢も50を超え始めると、それまで難なくこなしていた日常生活で「あれ? おかしいな」と思うような事実に出くわす場合が非常に多くなる。
老眼などはいい例で、それまで見えていた細かい文字が、顔からなるべく遠ざけないと読めなくなるほかにも、物忘れも酷くなる一方だ。
まぁ加齢による老化現象といえばそれまでなのだが、自らそうなってみてようやく理解ができるという感覚は、誰にでも少しぐらいはあるのではないだろうか。
俺はバンドでボーカルをやっているが、世間一般的には到底受け入れられ難い、うるさくて激しいハードコアパンクという音楽で、楽曲や音だけではなく、ライブステージや観客も激しくうるさい。
そんなライブでボーカルの俺は、歌いながら客席に突っ込んでいき、観客とともに揉みくちゃになるのが好みであったりもする。
ライブ前に多少強めの酒などを嗜んでしまったり、多めのアルコールが体内に蓄積されている場合には、調子に乗ってライブ中に怪我をしてしまうこともある。
ひどい時には骨折などをすることも多々あり、何日か痛くてどうにもならないので医者に行くと「ああ、これ折れてますね」などと軽く言われたりもする。
手や肋骨などであれば、折れていても外出時にそれほど困りはしない。いや本当は困る。非常に困るのだが、足の骨折になると松葉杖になったりギブスをはめられたり、もちろん痛みもあるので「歩く」という健常者にとっては普通の行為が非常に困難になる。
用事があって外出しなければならないと、玄関や部屋の扉の段差など、ほんの数センチの高さでさえ行く手を阻む。
当然、松葉杖で両手はふさがっているので、玄関の開け閉めや鍵をかけるのにもひと苦労だ。部屋から出るだけでこの有様である。
アパートなどではエレベーターという気の利いたものがあるはずもなく、痛みに耐えながらなんとか階段を降りて、ようやく娑婆の世界の入り口だ。
そして娑婆には、それまで何にも思わずにいた景色や状況が、全くもって腹立たしい現実として目の前に立ちはだかり、行く手をより困難なものにする。
いつも普通に渡っていた信号が、横断歩道の途中で点滅し始める。「信号の点滅までこんなに短い時間なら、お年寄りとかは大丈夫なのか?」などと考えるが、当の本人が急がなくてはならない。なんとか渡りきったところで、わずかな歩道の段差につまずき激痛が走る。
道路の昇り下りの勾配ならまだしも、左右の傾斜は容赦なく襲いかかる。崩れてしまうバランスによって怪我した足を使う羽目になり、幾度となく激痛が走る。
通常10分もあれば到着していたはずの駅に、2倍、もしくはそれ以上の時間がかかりやっと到着すると、けっこう混んでいる時間帯だったのでエレベーターに乗り切れない。明らかに怪我をしている俺に、エレベーターに乗っている7、8人全ての人間が気づかないようだ。
時間もないので仕方なく階段を降り始めると、一段一段の幅も狭く、慎重に行かなければ階段から落ちてしまう。
やっとのことで電車に乗ると、松葉杖の人間と目を合わす人間は皆無なので仕方なく立ったまま乗っているのだが、目的地に到着する前には乗り換えもあり、電車では延々とこんなことが繰り返される。
どうにも電車に耐えられず、帰りにはバスを使ってみても、状況に変化は見られない。はっきり言って外出が地獄である。
あの横断歩道のある道路が、国道やバイパスのようなもっと広い道だったら渡り切れただろうか? 信号が点滅しても音が鳴らないなら、目の見えない人はどうするんだ? スロープのない階段の苦しさを、ここまで感じたことはあったか?
まだ骨折程度の怪我なので、治ればどうってことはないのではあるが、世の中にある社会生活の中心になっている感覚が、全て健常者前提というのは、一時的であるにせよ健常ではない俺にですら、生き辛くて仕方がないと感じられるものばかりだ。
簡単に言うと、全ての環境が弱いものへの意地悪でしかない。
「出かけなけりゃいいのに」と思う人もいるかもしれないが、果たして本当にそうなのだろうか?
目が見えて当たり前、耳が聴こえて当たり前、声が出せて当たり前で、言葉が話せて当たり前。歩けて当たり前で健康で当たり前、肉を食って当たり前で、革やウールを着て当たり前。その当たり前で苦しむ存在はどうでもいいのか?
これだけ健常とされる人間以外をほとんど気にしない社会なら、そんな感覚が当たり前の人間で溢れかえっても仕方ないよな。いや、本当にそうなのか?
「常識」や「普通」「当たり前」の物差しが、全て健常である者や異性を愛して当たり前な感覚の者、人間以外の動物は殺して当然な者中心でしかないために、抑圧される存在は後を絶たない。それって差別じゃないのか?
男は女を好きになるもので、女は男を好きになるものだと決めつけられ、男も女も好きな人や、男が好きな男もいて、女が好きな女もいれば性別で分け隔てて好き嫌いを決めない人間もいるのに、そういった性的マイノリティであるLGBTQ+の人々は、愛し合っていてもこの国では結婚もできない。
レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダーの頭文字をとりLGBTなのだが、LGBTQ+のQは、クィアという元は「変態」に近い語感の罵倒語があったのだが、性的マイノリティたちの運動によって意味が奪還され、今では主に異性愛者以外の多様な性的志向を意味するようになったものだ。
そしてクエスチョニングという、自身の性自認や性的志向が定まっていないセクシュアリティの頭文字をとってQと表し、+には他者に対して恋愛感情も性的欲求も抱かない人や、男女のいずれにも属さない性自認など多様なセクシャルマイノリティを表し、LGBTQ+となっている。ただし幼児性愛(ペドフィリア)、動物性愛(ズーフィリア)、死体性愛(ネクロフィリア)は、同意していない相手を性的な行為に巻き込むため、LGBTQ+ではない。
マイノリティが生き辛い現実社会は、抑圧されて虐げられている当事者たちの責任なのか?
障がいがある、異性愛者ではない、人間以外の動物だというだけで、なぜ苦痛を感じなきゃならないんだ? 誰も何も悪くないぞ? それ、おかしいだろ。
健常な者だけが特権を持つのか? 異性愛者だけが特権を持つのか? 地球上で人間だけが特権を持つのか? 特権を持ったと傲り、マイノリティを差別して迫害し、苦痛を与えるのが健常な人間なのか?
それぞれが自ら選んだ生きる自由を奪う権利が、健常者や異性愛者、人間にあるとは到底考えられない。自由に生きる権利を奪わないで欲しい。その思い、感情はみんな同じじゃないのか?
健常者中心の社会によって、障がい者の自由が奪われている。
異性愛者中心の社会によって、LGBTQ+の人々の自由が奪われている。
人間中心の社会によって、人間以外の動物達の自由が奪われている。
自分だけが自由であれば構わないのか? この事実を、いったいどう思うのだろう。
昭和40年から50年代だったと思うが、北海道では人間の生活のために、漁の邪魔をするという理由でトドが撃ち殺されていた。
人間中心の社会は今も続き、地球は破壊され続けている。人間はそんなに優れた生き物なのだろうか。
役に立てば善なのか? 役に立たなければ悪なのか? 誰が断を下したんだ? 俺たちはみんなトドではないのか?
友川かずき『トドを殺すな』
可哀想なトドと
可哀想な人間に唄います
北海道の空と海の蒼
かき分けるように生きてゆく動物達
役に立てば善だってさ
役に立たなきゃ悪だってさ
誰が断を下したんだよ
トドを殺すな トドを殺すな
俺達みんなトドだぜ
おい撃つなよ おい撃つなよ
おいおい俺を撃つなよ
暇な主婦達は今日何頭殺したかと
注意深くテレビを噛ってた
男は自分の身長より高く顔を上げない
子供の顔はコンクリート色になった
夢は夢のまた夢夢夢………
トドを殺すな トドを殺すな
俺達みんなトドだぜ
おい撃つなよ おい撃つなよ
おいおい俺を撃つなよ
そこの人!
俺を撃つなよ
◉友川カズキ(2004年に「友川かずき」から現在の表記にあらためている)は1974年にシングル「上京の状況」でデビューした歌手。詩人、競輪評論家、画家としても知られる。ちあきなおみに楽曲提供した「夜へ急ぐ人」、「生きてるって言ってみろ」などが代表曲。「トドを殺すな」は、1976年発表のセカンド・アルバム『肉声』に収録。
【ISHIYA プロフィール】ジャパニーズ・ハードコアパンク・バンド、DEATH SIDE / FORWARDのボーカリスト。35年以上のバンド活動歴と、10代から社会をドロップアウトした視点での執筆を行なうフリーライター。