11月23日とはシーナ&ロケッツの正式なライブ・デビューした日であり(1978年、大阪御堂会館で行なわれたエルヴィス・コステロの来日ツアーでオープニング・アクトを務めた)、この日を境にバンドが45周年に突入する記念日であり、シーナ(Vo)が存命なら69(=ROCK)歳の誕生日であり、バンドの厚意で新宿ロフトがオープンから46周年を迎えたことを祝う目的もあった。この日配布された冊子『月刊 鮎川誠 STAY ROCK Vol.3』の表紙の傍らに“45・46・47(シーナ)”という数字が躍っていたのはそのためだ。祝い事が多く情報が渋滞気味にも感じるが、演る側も観る側も不自由を強いられてきたコロナ禍以降のライブハウス・シーンには収容人数が従前に戻ったことも含め、雪解けの時期を感じる慶事と言えるだろう。
そんなことをふと思ったのは、博多のジューク・レコード創立者・松本康が作詞を務めた「クレージー・クール・キャット」、「恋のムーンライトダンス」、「ワンナイト・スタンド」、「ボントンルーレ」といったナンバーを聴いたからだ。1970年代にサンハウスの活動をバックアップし、80年代にはアクシデンツの『Nite Time』やアンジーの『嘆きのバンビ』といった作品をリリースするなど博多のロック・バンドを陰で支えていた松本康が9月28日に永眠したことは、鮎川のツイートで知った。キンクスの「ユー・リアリー・ガット・ミー」を披露したのも、キンクス研究家として松本“キンキー”康の異名を持つ松本に捧げる意図があったのだろう。サンハウス時代からの盟友が他界したというとてつもなく大きい喪失感を携えながら、彼と共作した歌をこれからも演奏し続けていくんだ、それが遺された自分たちの使命なんだ。そんな強靭な意志みたいなものを爆音のアンサンブルの中に滲ませているように感じた。もちろんそうしたバンドの意志は、今なお彼らの精神的支柱であるシーナに対しても向けられていたように思う。遺された者の使命、それを貫く覚悟。その意志の重さと気高さ。ビートルズの「Carry That Weight」ではないが、シーナ&ロケッツとはそうした重荷を背負うバンドなのだと、その後のライブ終盤にぼくらは再び実感することになる。
奈良と川嶋が繰り出すしなやかだが図太い盤石のリズムに支えられ、溜めを利かせながらブラック・ビューティー(黒のレス・ポール・カスタム)を縦横無尽に弾き倒す鮎川のプレイ、それらが一体となる鉄壁のアンサンブルの中でボーカルを務めるのは、そのあまりにラウドかつハイテンションな音塊に拮抗することも含め至難の業だと思うが、ルーシーの発する伸びやかで艶やかな歌声もその存在感も堂に入ったものだった。「ハッピー・ハウス」や「ロックの好きなベイビー抱いて」といった代表曲をすっかり自分のスタイルに昇華した様を見聞きすると、シーナから引き継いだロックのDNAはもちろん、ロック・ボーカリストとしての伸び代の大きさを否応なく感じる。そんなルーシーが「ハウリング・ウルフ」で一旦ステージを去り、パイレーツの「ピーター・ガン」を披露した後はロケッツでもお馴染みのサンハウスのレパートリーが矢継ぎ早にプレイされる。今年は鮎川、奈良、鬼平(坂田紳一)、松永浩という布陣で“鮎川誠 Play The SONHOUSE”というプロジェクトが始動、オフィシャル・ブートレッグとも言うべきライブ・アルバム『ASAP』も発売されたが、「なまずの唄」、「オマエガホシイ(One More Time)」、「たいくつな世界」と続くパートでは不朽の名曲を数多く残したサンハウスと、そこから連なるロケッツの半世紀以上に及ぶ壮大な歴史に思いを馳せずにはいられなかった。2023年にはぜひ“鮎川誠 Play The SONHOUSE”として新宿ロフトに新たな歴史を刻み込んでほしいものだ。