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トップインタビュー【新宿LOFT歌舞伎町移転25周年記念インタビュー】P-MODELから有頂天、シンセサイザーズ。変幻自在なポップを奏でる永遠のニュー・ウェイヴ、三浦俊一。彼が目指してきた音楽とは

P-MODELから有頂天、シンセサイザーズ。変幻自在なポップを奏でる永遠のニュー・ウェイヴ、三浦俊一。彼が目指してきた音楽とは

2024.08.10

 今なお新規のファン層を開拓しているテクノ界の重鎮、P-MODEL。そして、80年代にさっそうと現れ、そのポップな音楽性と現代的な歌詞で瞬く間に集客を増やしていった有頂天。シーンに多大なる影響を与えた2バンドに在籍した経験を持ち、SONIC SKY、ケラ&ザ・シンセサイザーズでも活動してきたミュージシャンの三浦俊一。彼がついに還暦を迎える。
『三浦俊一 還暦がやってきたヤァ!ヤァ!ヤァ!』と題し、新宿LOFTで8月21日(水)にライブを行なう。気になるラインナップには自身がメンバーとして在籍している花のトリオ(内田雄一郎+三浦俊一+河塚篤史)を始め、KERA、大槻ケンヂ、中野テルヲといった盟友が勢ぞろいする。今回は、三浦俊一にこれまでのキャリアや、ライブへの意気込みを聞いた。(Interview:池守りぜね / Photo:Toshikazu Nishimura)

P-MODELみたいなバンドがやりたくて、本家にメンバーとして加入

──三浦さんのプロとしてのキャリアのスタートはP-MODELですが(1983年3月に2代目キーボーディストとして加入)、当時は大学生だったそうですね。

三浦:P-MODELに加入した時は18歳くらいだったので、今にして思えば若いですよね。大学に通っていたのは、高校が明治学院の付属校だったんですよ。それも母の一存で決められたようなもんで(笑)。大学の授業には出ていなかったので、ちゃんと学校に行っていた人は偉いなって思います。

──大学とプロのミュージシャンは両立されていたのですか?

三浦:大学では軽音楽部に入っていました。P-MODELに加入したけれど、すぐに次の人が入るんだろうなって思っていたんです。そうしたら、部活の人に僕がP-MODELにいるのがばれたんですよ。それで先輩たちがデモテープを持ってくるようになって、「対バンをやらせてくれ」って言うんで、面倒くさくなって行かなくなっちゃった(笑)。

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▲P-MODELの通算5作目となるスタジオ・アルバム『ANOTHER GAME』(1984年2月にジャパンレコードより発売)。三浦が参加した初のアルバム。

──そこからはプロでやっていこうと考えていたのですか。

三浦:でもその頃はまだ、プロとしてやっていこうとかはあんまり考えていなかったんじゃないかな。普通に大学に通って、教職取ろうかなって考えたこともあったし。でもなんとなく「プロになるだろうな」っていう根拠のない自信があって。それが叶ったわけなんですけれど。P-MODELを辞めた理由は、オリジナル・メンバーが減ってしまったっていうのが大きかったですね。最後は平沢(進)さんしかいなくなった。僕は“P-MODELみたいなバンド”をやりたかった。でもP-MODELみたいなバンドって、P-MODELじゃないんですよね。それはP-MODELなんですよ。

──やりたい方向性が違ったのですね。

三浦:メンバーもみんな僕より年上だったし、世代差もあった。みんな音楽に対する考え方が真面目でしたよね。僕らの世代は結構、いいかげんなんですよ(笑)。ちょうどその後に、自主製作盤を中心としたインディーズ・ブームが起きるんです。ミュージシャンが自身でレーベルを作ってレコードを出すのを見てかっこいいなって感じた。そういうのをやってみたいってぼんやりと思っていましたね。でも辞めた後のことは何にも考えていなかったです。

大学生活に戻る予定が再びバンドへ。テレビ出演や一日ライブ2本と忙しい日々

──そこから有頂天への加入(1986年2月)はどのようにして決まったのですか?

三浦:P-MODELを12月(1985年)に脱退しているんですよ。そこから数カ月準備をして、4月からまた大学に戻ろうって考えていた。そのタイミングで、KERAさんから「会おうよ」って言われて有頂天を手伝うことになったんです。後で聞いたら、KERAさんは「最初から三浦を(メンバーに入れることを)狙っていた」って言っていましたけれど(笑)。僕としては「大学に戻るのをちょっと延ばすか」みたいな気持ちで加入しました。有頂天はちょうど『BECAUSE』(1986年5月リリース)をレコーディングしていて、僕は撮影にだけ参加しているんです。レコーディングには参加していないのに。対外的には三浦が演奏していたっていうふうに見えるようにしたのだと思います。

──有頂天時代は、どのような思い出がありますか?

三浦:バンド・メンバーの中で、メジャー経験があるのが僕しかいなかった。だからメーカーの選定や、エンジニアとのやり取りでもメンバーの中でイニシアティブを取る立場になった。僕も、もうなまいき盛りですから(笑)。レコーディング・スタジオの鍵を閉めて、他のメンバーが入れなくしちゃったり(笑)。メンバーが6人もいると、みんなで“俺が、俺が”ってなってしまって収拾がつかないんです。全員のフェーダーが上がって、最後にマスターで下げるみたいな状況だった。だから「僕がやるからいい」って、メンバーには「スーパーマリオブラザーズでもやっておけ」って伝えていた。おかげで僕が一番、マリオが下手になりましたけどね(笑)。

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──『インディーズの襲来』(1985年8月放送)への出演や、「べにくじら」(1986年12月リリース)が『上海紅鯨団が行く』(1986年~1987年放送)のオープニング・テーマになったことがきっかけで、より若い世代がライブを観に来るようになったと聞きます。私も初めて有頂天のライブを観に行ったのが小学生だったので、KERAさんがエッセイで「小学生がライブを観に来た」と書かれていたのを読んで、胸を痛めたんですよ(笑)。

三浦:僕はステージでの立ち位置が後ろだから、客席が見えにくいんですよ。当時のキーボード担当は、今の曲を演奏している間に次の曲を準備しなきゃならなかったからやることも多いし(笑)。だから客席を見ることはなかったけれど、ランドセルを背負っているような子がライブに来るようになったっていうのは聞いたことがありますね。
 当時はレコーディングも凄い時間をかけて綿密に作業をしていたし、KERAさんの見解では、バンドというよりも芸術(アーティスト)寄りの存在を目指していた。そこには、自分たちは前衛的なポップをやっているという自負があったんです。それをまだ感じ取ることができなそうな年代の子たちがライブにいらっしゃった時に、ギャップみたいなものが生じた。それがジレンマになったんじゃないかって思いますね。僕個人としては、誰が来てもらっても構わないんですけれど(笑)。逆に言うと、お年寄りの方が来ても良かったんですけどね。ただKERAさんとかステージ前列のメンバーは客席が気になったでしょうね。

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▲有頂天の5枚目のシングル『べにくじら』(1986年12月にキャニオンレコードより発売)。バラエティ番組『上海紅鯨団が行く』の主題歌に起用。

──有頂天は衣装やビジュアルがコンセプチュアルでしたが、三浦さんのルックスもバンドマンというよりも知的な印象でしたよね。

三浦:それはありがたい。でもそれはレコード会社や事務所のスタッフが作ってくれたイメージですよね。金髪だった髪の色は黒にして、眼鏡をかけて知的なイメージに変えられましたから。それまでは丘サーファーで、ニュー・ウェイヴじゃなかったのに(笑)。みんながうまく騙されてくれたんです。

──『みうショー!』(三浦とshotaroによるポッドキャストのフリートーク番組)では、有頂天はジンギスカンが不味かったので脱退したと語っていましたが……。

三浦:それはね、脱退した日の夕方まではご機嫌だったんですよ。岡山県の蒜山高原で開催されたフェスに出演したんです。そのフェスにはチューリップが出ていたんですよ。チューリップのライブが凄く楽しみで、大満足していた。でもその日の晩に、出演者が宿泊するコテージみたいな場所で、僕はラム肉が食べられないのにジンギスカン料理が振る舞われた。それでね、事務所の体制的にどうなんだろうかとか、バンドの方向性を雑誌のKERAさんのインタビューで知るとか、そういう今までの“どうして?!”っていう積み重ねが蘇ってきた。箸をバーンって置いて、「俺、辞める!」って言っちゃったんです。次の日に会議があったのですが、誰も反対しなくて……(苦笑)。誰か止めろよ! って思ったけれど。その後半年ぐらいは、脱退することを隠しながら活動していました。

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LIVE INFOライブ情報

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新宿LOFT歌舞伎町移転25周年記念
『三浦俊一  還暦がやってきたヤァ!ヤァ!ヤァ!』
【出演】
花のトリオ(内田雄一郎三浦俊一河塚篤史
【日時】2024年8月21日(水)開場17:45 / 開演18:30
【会場】新宿LOFT
【チケット】前売¥6,800 / 当日¥7,300(共にドリンク代別¥600)
イープラスにて8月20日(火)18:00まで発売
*枚数制限:お一人様2枚まで
*入場順:①イープラスプレオーダー(A)No.1〜 ②イープラス一般(B)No.1〜 ③当日券
【問い合わせ】新宿LOFT 03-5272-0382
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