メジャー、インディーズを問わずいろいろなバンドに参加
──脱退後は、中野テルヲさんや鈴木友行さんとSONIC SKYを1989年に結成されています。当時はどのようにして活動されていましたか?
三浦:SONIC SKYは、新宿LOFTにチラシを配りに行っていました。あとは、『ぴあ』や『シティーロード』という情報誌にライブ情報を載せたり、ライブのアンケートに書いてある住所に葉書を送ったりもしていましたよ。バンドの規模が小さいから、自分たちでやっていましたね。
▲SONIC SKYのファースト・アルバム『SONIC SKY』(1989年11月にミラクル・ボックスより発売)。
──SKAFUNK(スカンク)でも活動されていましたね。
三浦:SKAFUNKにも短い間、いましたね。3、4カ月だったかな。僕の前にいたギタリストが辞めるってなって、声が掛かった。その当時、音楽プロダクションで働いていたんです。そこにSKAFUNKを連れてきました。でも4カ月くらいして、前橋で僕がメンバーに灰皿を投げつけて、クビになった。
──今度は灰皿を投げたのですね(笑)。バンド活動自体は、楽しかったんですか?
三浦:楽しかった。有頂天もSKAFUNKもロックぽかったですからね。そういう意味では、P-MODELそのものではないほうが合っていたんでしょうね。そう言うと、みんな贅沢だって言うんですけれど(笑)。
──時期がさかのぼるのですが、有頂天が中野サンプラザで行なった解散ライブ(1991年9月15日)を観に行ったんです。有頂天の歴代メンバーが、それぞれの活動時期の代表曲を演奏していく演出だったのですが、三浦さんの演奏と、その後に加入されたシウさん(シウ・角田英之)の演奏は、同じバンドなのに音から受ける印象が違ったんですよ。
三浦:角田は、きちんとポップスを学んできた人なんですよ。だからデタラメなことをやるのが難しくて苦手なんです。僕はある意味、いいかげん。理屈的にはどうなっているのかわからないけれど、とりあえずやっちゃうっていう精神だから。音楽的には暴力っぽい感じかもしれない。
──音の作り方も違っていたのですか。
三浦:シンセサイザーの音の作り方も、角田はきちんとポップスの枠組みの中で作っていた。僕は、電子音って言ったら伝わるのかな。シンセサイザーには、加工していない電気の音みたいなのがあるんですよ。それが好き。根底にパンクがあるのかもしれない。かっこいいとか洒落た音よりは、機械そのものっていう音が好きだった。
──それが今の三浦さんの音楽活動にも通じている気がします。
三浦:そういえば卓球(電気グルーヴ・石野卓球)が高校生くらいの時に、静岡のライブに遊びに来たんです。その時に僕のセッティングを盗み見しに来たことがあった。そうしたらびっくりしていましたね。もっと難しいことをやっていると思っていたみたい。僕はつまみの位置も10か0のどちらかですから。今も基本的な音作りは変わらないですね。
──プレイヤーとしては、同じ事務所だったGO-BANG'Sのサポートもされていましたよね。
三浦:GO-BANG'Sはツアーのサポート・メンバーとして参加していました。KERAさんが芝居をしている間、やることがないから。事務所から依頼された仕事っていうスタンスでしたね。ただGO-BANG'Sのサポートをしていた時は辛かったなあ…。昼がGO-BANG'Sで、夜が有頂天っていう日があったんですよ。神戸でライブして、そのまま電車で大阪に入ってまたライブみたいな。売れっ子みたいだなって勘違いしますよね(笑)。僕の次にサポートに入ったのが、朝本浩文君でした。
──ちなみに、GO-BANG'Sといえばサポート・ギターは、友森昭一さん(レベッカ、筋肉少女帯などに在籍したギタリスト)でしたか?
三浦:いや、女性メンバーでしたね。意外なことに、友森とは一度も一緒に演奏したことがないんです。よく会っているんですけれどね(笑)。
KERAとシンセサイザーズを結成。19年という長きにわたりバンマスに
──KERAさんとは、ポメラニアンズから改名したシンセサイザーズ(その後、ケラ&ザ・シンセサイザーズに改名)を1995年に結成しています。
三浦:シンセは、何年か休んでいる時期もありましたけれど20年弱やりましたからね。それはKERAさんが芝居に入ると、バンドとしては動けなくなるから。KERAさんが岸田戯曲賞を受賞したあたり(『フローズン・ビーチ』で1999年、第43回岸田國士戯曲賞受賞)から、忙しくなっていった。その後もメンバーがどんどん他のミュージシャンのセッションで名をあげていくんですよ。だからどんどんスケジュールが合わなくなっていった。初期の頃はリハができていたのに、それがゼロになってライブ・スケジュールも取れなくなった。そういう状況だったから、一旦、活動休止をしたりしたこともあったけれど。でも僕も辞めるまで19年って長かったですね。
──19年のキャリアの中で、思い出深いエピソードはありますか。
三浦:『ザ・シンセサイザーズ』(1998年4月リリース)あたりから、自分で思ったような曲が作れるようになった。有頂天の『AISSLE』(1987年6月リリース)は、若さでねじ伏せた部分があったので。それがシンセサイザーズになって初めて、いいって思える曲ができるようになりましたね。シンセをやりながらも、秋元きつね君がやっていたHz(ヘルツ)や、杉山圭一君のヤング100Vにも入ったり。並行していろいろやっていましたね。
▲ケラ&ザ・シンセサイザーズのファースト・アルバム『ザ・シンセサイザーズ』(1998年4月に新生ナゴムレコード/ロードランナー・ジャパンより発売)。当時は“ザ・シンセサイザーズ”名義だった。
──内田雄一郎さん(ベーシスト|筋肉少女帯)と河塚篤史さん(ドラマー|陰陽座や筋肉少女帯などのサポート・メンバーとしても活躍)からなる花のトリオは、どのようにして始められたのですか。
三浦:内田に任せたらどんなバンドができるんだろうっていうのがきっかけですね。結果的にジミヘン歌謡になりました。もともとNESSっていうバンドを内田と河塚と戸田(FLOPPY・戸田宏武)と組んでいたんですよ。そのバンドもだんだんとスケジュールが合わなくなって、結局、戸田抜きのNESSみたいになったのが花のトリオ。久々に僕がイニシアティブを取らないバンドですね。
── 一番最近はHymk(ヒンク)を組まれています。元POLYSICSのkayoさんが参加しているHymkはどういう経緯で集まったメンバーなのですか。
三浦:Hymkはお茶会の続きがバンドになった形です。お茶会からバンドが始まっていますからね(笑)。ドラムのYA/NAちゃん(ZEPPET STORE)が、局所性ジストニアで右足を思うように動かせなくなっちゃったんですよ。それからドラムが叩けないという状況になってしまって。でも手が動くのであれば、足は機械に任せちゃおうぜっていうアイディアに、Hisayo(tokyo pinsalocks, a flood of circle)が乗っかった。最後にYA/NAちゃんが、kayoちゃんを連れてきたんです。