大切な家族との生活とロックはちゃんと両立できる
──そこを補って余りあるのが関係者の証言で、とりわけ陽子さん、純子さん、ルーシーさん(知慧子さん)というご家族三姉妹の言葉がとても貴重で重要なポイントだと思いました。バンドのマネジメントを務める純子さんの治療に専念してほしいという意向に対して「自分の生きがいを奪わないでほしい」と鮎川さんが語ったというエピソードには生粋のバンドマンであることを貫いた鮎川さんの矜持、生き方が凝縮しているように感じましたし、本人が直接語るよりもその人の特性が伝わる好例ではないかと感じました。
寺井:ロックンローラーとして現役を貫いてほしい思い、父親として長く生き続けてほしい思いにとりわけ引き裂かれたのが三姉妹の中では純子さんだったのではないかと思います。バンド活動を支える立場と家族としての立場が一致しないという点において純子さんは相当悩み抜かれたと思いますが、結果的には公的なスタンス、マネージャーの立場を選んだ。それはとても辛い選択だったと思います。これは純子さん自身、お話ししていたことですが、「マネージャーという立場を選んで以降、公に感情を出せなくなっていった」と。実の父親でありながら日本屈指のロック・ギタリストでもある鮎川さんの病気を気遣いつつ、そうした感情を押し殺してバンドを支え続けることを求められたわけですから。鮎川さんの死後、陽子さん、純子さん、知慧子さんの語った心境や立場が三者三様なのも興味深いですね。現実を受け入れて、ある種達観したようにも感じる純子さんの言葉もあれば、未だ現実を消化できていないと語られる知慧子さんの言葉もある。さらに言えば、「あの妹の言葉は自分の思いを代弁してくれました」と純子さんが後日話してくれたんです。つまり、裏方に徹していた自分にも現実を消化できていない部分があると。僕らはただ大好きなアーティストが亡くなってしまったという感覚だけど、ご家族にとっては大切な父親を失ってしまったわけですから、われわれには想像もできない重みや複雑な思いがあって当然だと思います。知慧子さんにしても、いつ倒れるかわからない父親の横で唄い続けるのは大変な気力と体力を求められていたと思うし、病床に伏す父親を看護しながら個展に出品する絵画を描き続けた陽子さんにも絶えず苦悩があったはずですし。自分としてはあまり追悼映画みたいな感じにはしたくなかったし、鮎川さん自身が常に明るく前向きな方だったので尚のこと湿っぽくしたくはなかったんですけど、だからと言って家族の背負う悲しみや辛さから目を背けるのは違うなと思って。
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──タイトルにもある通り、ロックと家族・家庭を両立させた鮎川さんのパーソナリティが本作の主題と言うか、そうした懐の深さがいかにして育まれ、周囲に影響を及ぼしたのかが主観であり一貫した視点のように感じましたが、監督の置かれた焦点とはどんな部分でしたか。ロックという表現、家族・家庭という集合体は一見相容れないもののようにも感じますが、そうした要素を無理なく共存させて公にしたことが鮎川一家のユニークな一面だったと本作を鑑賞して実感したのですが。
寺井:ロックと家族が相容れないものというのも、こちらの思い込みなのかもしれませんよね。と言うのも、スクービードゥーのコヤマ(シュウ)くんがこの映画を観てくれて、「みんな至って普通のことを話していますね」という感想をくれたんです。つまり、ロックに求められる過激なイメージと言うか、ホテルの窓からテレビを放り投げるみたいな突き抜けたエピソードは全然出てこない。だけど別にそんな特異なことをしなくてもロックはやれるし、結婚して子どもたちを育てながらでもロックを続けられる。それを体現し続けた鮎川さんはユニークと言えばユニークな存在なんでしょう。でも、鮎川さんもシーナさんもそれをごく普通のこと、当たり前のこととしてやり続けていた。刹那的に過激に生きることをしなくたってロックはやれる、大切な家族との生活とロックはちゃんと両立できる好例としてこの映画を観ることもできるんじゃないですかね。まあ、それで「ロックとは何か?」という命題を僕自身が突き詰められたのかと言えば全然そんなことはないし、そもそもそんなテーマ自体が自分には恥ずかしくて言いづらい(笑)。だけどロックだからと言って身構える必要はないし、生活とロックがイコールだっていい。鮎川さんはロックの鉄則として「自分で決める。ただそれだけ」とよく仰っていましたけどね。8ビートでなくとも、ギターを使っていなくともロックに聴こえることもあるだろうし。
──意外だったのですが、寺井監督は福岡育ちであるにもかかわらず、思春期にはめんたいロックと呼ばれるジャンルとは敢えて距離を置いていたそうですね。そこからどんな経緯で理解を深めるようになったのですか。
寺井:当時の“博多のロックはこうあるべき”という圧みたいなものに取り込まれたくない感覚は、おそらく地元の人間じゃないとわからないでしょうね。昔はブリティッシュ・ロックとかルーツに根差した音楽が好きで、リアルタイムの洋楽はあまり聴いていませんでした。具体的に言えば、中学時代に第2次ブリティッシュ・インベイジョンと呼ばれたカルチャー・クラブやデュラン・デュランみたいなものがすごく流行って音楽に目覚めて、その後に音楽誌を通じてパンクを知って、当時の地元はハードコア・パンク全盛の時代だったんですけど、僕はそこには馴染めなかったんです。日本のバンドなら、ルーツっぽい音楽をやっていたコレクターズみたいなバンドやブルーハーツとかを好んで聴いていました。転機があったとすれば、大学になって北九州から福岡へ出てきたときにジュークレコードの存在を知ってからでしょうね。コレクターズが推薦していたキンクスやフーのCDやレコードが山のように置いてあって、後になって店主の松本さんが日本有数のキンクス研究家だと知るわけです。本来はめんたいロック特有の上下関係みたいなものとは無縁でいたかったけど(笑)、そうしたルーツ音楽を深く知れば知るほどシーナ&ロケッツやサンハウスのような偉大なる先人たちの音楽に対してリスペクトの念を抱くようになったんです。